古代からの蛇神神社☆夜刀神
やとのかみ
常陸国風土記に登場する神社でも最古級の神社
夜刀神様が鎮座するのは、茨城県行方市玉造甲です。ぶくぶくと神秘的な泉が湧き出る椎井池から山に登ると夜刀神社に到着します
1300年前の常陸国風土記
奇妙な夜刀神伝説(行方郡)
夜刀神とは蛇に角が生えている姿をしている
夜刀神は『常陸国風土記』に登場する日本の神である。
昔々、6世紀初頭、継体天皇が日本を治めていた時代です!
箭括氏(やはずのうじ)の麻多智(またち)が西の谷の草原を切り拓こうとしました
しかし、その周辺に住んでいた夜刀神という蛇の神様が群れとなって押し寄せて来ました!そして夜刀神を山に追い払って、山と地上に結界を張り、愛宕神社を建てました。
1300年の時空を超えた世界観が、ここにはある
蛇神を祀る神の社は、今、なお、存在し、土地の人々によって祀られ続けている
それから、約150年を経て、孝徳天皇の時代
行方郡の役人であった壬生連麿(みぶのむらじまろ)が谷に池を作ろうと計画していたが、夜刀神が立ち去ろうとせず、これを駆逐するように号令をかけました!その池は椎の池と名付けられました!
夜刀神を祀った社の後身であるという。風土記には「椎井(しひゐ)の池」が付近にあったとするが、社前の清水が湧出する「天龍の御手洗」がかつての「椎井」であるという。夜刀神は蛇体で頭に角を有つといい、「夜刀(やつ、やと)」は関東地方の方言で谷間、谷合を意味する「谷地(やち)」「谷津(やつ)」「谷頭(やと)」に由来し、また現に霞ヶ浦周辺の谷間の湿地には蝮などの蛇類も多いため、夜刀神は土地神としての蛇神であると見られている。
壬生連麿(みぶのむらじまろ)の彫刻、今度は大和朝廷の律令官人が乗り込んできた
現在も神秘的な泉が湧いている椎井池清らか~神聖~
そこから、山のほうに登っていくと
ガーン愛宕神社のお社がありました
そして、お隣には
夜刀神社が 夜刀神さまが
白い鳥居の裏側には、1500年と書いてある
夜刀神さまは、まるでスポットライトが当たっているように、きらきら輝いていました
私は、お酒がお好きと聞きましたので、日本酒を持っていきました
まるで、私を歓迎してくださっているような温かい気持ちになりましたありがとうございます
なぜか、恐怖心がなくなった
かつては現在地の南200 m程隔たった台地の縁辺、字滝の入に鎮座していたというが、享禄2年(1529年)に常陸大掾氏の一族である玉造城第13代城主、玉造憲幹が愛宕神を勧請して合祀し、水戸藩主徳川光圀が「天龍の御手洗」背後の台地にある森(現社地)へ遷座したという。水戸家所蔵の古文書に「愛宕権現社(中略)天龍院支配」とあるので、近くにあった天龍院(天台宗であったという)が所管していた。
滝の入の旧社地には戦前まで古木が鬱蒼と繁茂する鎮守の杜があり、ここを「古愛宕」と称して方7尺で胸高程の高さの基壇の上に小祠が祀られていたが、戦後に樹木が伐採されて基壇も突き崩され、現在は低木のみが茂る藪と化している。昭和49年(1974年)に境内に「夜刀神」の碑が建碑された。
愛宕神社、夜刀神社
茨城県行方市天竜甲3451-1
駐車場あり
エリザベス
今年は巳年
私は、今年、夜刀神社に参拝しました
古代から伝承されている伝説の神社です
この地域は、水源が豊富で、良い水田がある地域でした。蛇とは、原住民のことだろうと思います。えだちのたみとして蛇退治にあたった農民たちもまた、壬生連麿(みぶのむらじまろ)のように蛇を退治してそれで事が済むとは考えなかっただろう。律令制の導入、またそれによって天皇の権威がどれほど強大なものになろうとも、なお村々の信仰においては、蛇神といえども、カミは、祀るべきものであり、祀ることによって祟りを鎮め、繁栄が得られるのだろうとする考え方が生き続いていたことを忘れてはならない
夜刀神社
茨城県行方市玉造甲3451-1
社務所なし
駐車場あり
兼務神社連絡先
素鵞神社(夜刀神社から車で30分)
茨城県小美玉市小川古城1658-1
℡0299-58-0846
社務所 午前10時から午後4時