小高山不動院☆中世の行方四頭の誇り、小高氏の四天王の畑木家と地域の皆様が御守りしています。 | エリザベスのブログ

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おとめ座茨城県行方市の小高のお不動様へ行きました!

小高山不動院には、鎌倉時代製作の木像、不動明王坐像が安置されていました!

不動明王様は宇宙の大いなるパワーを宿す仏様。

煩悩を抱える人々を救う慈悲深い仏様です!

やしの木平安時代に常陸の国は、桓武平氏の流れをくむ常陸大掾氏(ひたちだいじょうし)が勢力を拡大していた。行方郡はその一族、忠幹が「郡司」として支配し、郡内の荒野開発を進めていた。

その子、景幹が1184年源平の合戦で源義経に従って屋島の戦いで戦死すると4人の息子に分割剰余した。

やしの木行方(後に小高)・島崎・麻生・玉造の地名を苗字とした諸氏は「行方四頭」と呼ばれ、郡内に勢力をふるいました!

この不動院は、中世の行方四頭の長男小高太郎の重臣で四天王の畑木家の子孫が御守りしています!  
像高41.5センチ、寄木造り、玉眼

行方市指定有形文化財(彫刻)

 

小高山不動院(しょうこうざんふどういん)

おとめ座ずっと来たかったラブラブ私の祖母の故郷ですからラブラブ

私の高祖母は、亡くなるときに雷様がお迎えに来るからね!!

と、言っていましたが、葬儀の日、晴天だったのに、家を出るとき、にわかに雨が降り雨、雷様がゴロゴロ雷雷雷不思議でしたはてなマーク

不動明王様と雷様はつながっているのかしらはてなマーク

 

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やしの木長男の為幹は、行方氏の宗家を継いで、行方太郎と称し、後に

小高に本拠を移したので小高氏となった。この人物が曹洞宗

小高山(しょうこうざん) 皇徳寺を創建した小高太郎為幹である。

為幹は、鎌倉時代初め13世紀の初頭に小高城を築いて、行方城からここに移った。小高城は30mの断崖上に築かれた山城で、二重の空濠をめぐらし、三方は深田に囲まれていた。家来達を近くに住まわせ、城域に菩提寺として皇徳寺を建立した。(現在の常光院の所)

やしの木16世紀末、常陸北部の佐竹氏が常陸統一を推し進め、1591年、行方の一族はことごとく滅亡した。小高氏の家来達は、すべてこの小高の地で帰農した。小高城へは、4年後、佐竹氏の家臣、

大山義勝が入り、皇徳寺は追放されて常光院と名を変えた。

7年後、1602年関ヶ原の戦いで豊臣側だった佐竹氏は秋田へ移封。小高にいた大山氏の家来達は集団で土着帰農し、小高城は廃城となった。

 

 

小高山不動院(しょうこうざんふどういん)内部

やしの木激動の歴史をたどり、現在まで繋がっている皇徳寺と不動院と

地域の人々。

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1595年、小高城は、佐竹氏の家臣、大山義勝が入り、皇徳寺跡は常光院と名を変えた。

1602年、佐竹氏は秋田へ移封。小高城廃城。

1604年、小高は麻生領となる。(新庄氏の麻生藩)

1700年、皇徳寺は、現在地へ再建(5代将軍綱吉の時)

 

 

おとめ座入口は、石の階段がありました!
地域の人々の心のよりどころですね!

鳥居は小高稲荷神社です音譜

 

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皇徳寺の境内周辺には、前方後円墳をはじめ、いくつかの石棺が

発見されている。はっきりしないが、初代為幹の墓は、現在の

皇徳寺墓地にあり、家老今井家、四天王の畑木・箕輪・宮内・浅野家、御殿医の高橋家、その他家臣達歴代の墓もそばにある。元禄年間に、皇徳寺をこの地へ移転したことも、そのためではないかと思われる。

おとめ座エリザベスラブラブ恋の矢

中世の戦国時代を生きた皆様のご苦労と心意気を感じます。

この文献は、行方市麻生郷土文化研究会「麻生の文化」第54号

に投稿されています門井俊道様のご執筆を参考にさせていただきました。ありがとうございます音譜