行方市の常安寺をご紹介しちゃうわ☆
行方市の名勝、天王崎公園の入口に建つ常安寺
今から凡そ4百年以前、即ち天文14年(1545年)10月、
行方四頭の麻生三郎常安公の開祖になるものであります。
中世行方4頭(小高・島崎・麻生・玉造)の麻生氏です。
常安寺は中世当地を支配した麻生氏の菩提寺で茨城県行方市麻生に境内を構えています。
もとは麻生氏居城たる羽黒城(現在の羽黒山公園)の北方道路にあり、
那智山道知院と呼ばれ、麻生氏菩提寺として、先祖の冥福と武運長久を
願って、道知幽源大和尚が迎えられて開創されたのである。
驍将佐竹義宣の軍との戦いに敗れ討ち死にされた。時に天正15年
(1587年7月27日)である。
以後、寺も寄る辺なく幾星霜、荒廃甚だしくなっていた折しも鷹庵大雛大和尚
水戸より来りこれを歎き、その復興を志し、道知より現在地たる羽黒山西隣の
地に移築され、その名も太平山常安寺と改め、開山第一世となられた。
時に慶長4年(1599年)2月である。
後ろに城跡 羽黒山公園を控え、前に霞ケ浦を望む、得難い環境を誇る曹洞禅寺として
現在に至る。本堂は、明治15年に改築されてより約百年を経て老朽甚だしく、檀信徒の
尊い浄財を仰ぎ建築、昭和58年4月24日、落慶入仏大法要を営んだ。
山号 太平山
宗派 曹洞宗
鐘楼の後ろのナギの木
パワーを頂ける神聖な木
鐘の後ろの木はナギの木で行方市指定天然記念物
ナギの木は熊野信仰と結びついて神社に多い木だそう
開運・厄除けの木
『海が凪ぐ・・・』苦難を『なぎたおす!』
かつて昔、今のような交通機関の発達もなかった
時代のお参りとは熊野や伊勢神宮を例にあげても、
命をかけての大変な道のりでした。
お参りに来た人々は道中のご加護を願い、
なぎの葉をお守りとして
身に着けて厄をよけ旅路を進め苦難をなぎたおす
幹囲 約2.38メートル
樹高 約12メートル
樹齢 約300年
山門は、明治44年改築の珍しい赤煉瓦造り
本堂入口の寺額は佐藤男爵様の書
こちらは、麻生ゆかりの佐藤男爵の筆によるもの
常安禅寺 正四位男爵 佐藤進
順天堂病院を経営していた佐藤男爵家(日清日露戦争の功で爵位を賜った、東京陸軍病院長
・陸軍軍医総監佐藤進氏)
順天堂三代堂主 佐藤進1875~1909
佐藤進は、弘化2年(1845)、太田村(現常陸太田市)の造酒屋高和家に生れました。
現在はヨネビシ醤油株式会社
医学を目指し、慶応2年(1866)、下総(千葉)佐倉の順天堂・佐藤尚中の養子となりました
教育者として後進の指導にも並みならぬ力を注ぎ、明治44年(1911)、出身地常陸太田の
幼稚園増築に6,000円を寄付、現在の太田進徳幼稚園となりました
1869(明治2)年、明治政府の公式旅券第一号を得てドイツ・ベルリン大学へ留学・卒業。
東洋人として初の医学博士の学位取得。
ウィーン大学で学んだビルロートの外科学を「外科通論」として紹介。わが国の西洋近代外科の基礎を築く。
順天堂医院第二代院長。
西南の役(明治10年)で陸軍軍医監として活躍。
1885(明治18)年、順天堂医事研究会を発足させる。
日清、日露戦争において陸軍軍医総監の任にあたる。
京城の大韓病院創設に尽力、初代院長。男爵。
佐藤進男爵のお母さんは、行方市麻生の高橋家
から常陸太田市に嫁ぎました
彼は高和家の跡取りでしたが,母親のたみが「進を医道に進ませたい」と強く望み,周りを説得して家業は進の姉に婿を迎えて継がせることになり,進は安政6年(1859),15歳の時に母に伴われて佐倉(現在の千葉県佐倉市)へ行き,順天堂主・佐藤尚中の門人となりました。ここでも進は,めきめき頭角を現し,慶応3年(1867),望まれて尚中の養子となりました。
母の故郷麻生を愛した佐藤進
佐藤進の妻 佐藤志津( さとう しづ 女子美術学校校長 )とともに、現在の羽黒山公園(別荘と呼ばれた)に女子美大の合宿所を設置し、行方地区の女子の芸術家の育成に貢献、その後は旧麻生町へ譲渡した
レキジョ
興奮
長い歴史をたどり、今もなお私たちの心を安らかにしてくれる行方市の常安寺です。