千手観世音菩薩さまの掛軸が家から出てきましたの
うううっ これは、いったい・・・・なに?
令和元年5月のある日、天井のお掃除をしていましたら、
木箱に入った巻物を発見しましたの。
千手観世音菩薩 毎月縁日 10日・17日・18日
常州麻生 最勝院 と書いてある観音様です。版画のように見えます。
なんとも保存状態の良い可愛らしい観音様でした。
それから、毎日、お茶やお水を差し上げて、声をかけて大切にしています。
木箱に入っていたの
これは、いったいなんの巻物かしらと開けてみました。
中には、昭和11年貯金通帳入名簿、旧正月と書いてある書き物があった。
昭和11年は、1936年ですから、83年もわが家で保管していたので
しょうか?
千手観世音菩薩さまは、行方市の蒲縄にあります。
蒲縄の集会所と新川観音があり、入口に新川観音の由来があります。
新川観音 観光掲示板参照
○いつ頃から
この最勝院は、医王山蓮城院の別院で、享保2年(1717年約296年前)
に創建され、当初は新川の河口に建立されていたので「新川の観音様」の名称
が残っています。安永8年(1779年)類焼したが、直ちに再建されました。
・昭和4年(1929年・84年前)麻生港船溜まり掘削により、
現在地に移転された。
○ご利益は
航行安全、「子授け・育児に霊験あらたかをもって知られ」、1月10日の
「取子安全大護摩修業」には、多数の参詣者で賑わっています。
この写真は、明治時代後期~昭和初期かー
江戸時代からの河岸であり、麻生名物だった新川観音堂
城下川~新川を経て霞ヶ浦への河口近くにあって、町民の集う
憩いの場であった。(麻生の文化 第48号から)
新川河岸について 観光掲示板参照
○いつ頃から
・霞ヶ浦は、古くから石岡の国府・香取社・鹿島社を結ぶ
重要な水上交通路であった。・江戸時代には、富田・粗毛・
蒲縄・古宿に人名や屋号を付けた数多くの河岸が設けられ、
水上交通の拠点となり、米・薪・竹などを積みだした。
○御用河岸
特に、新川河岸は、江戸時代に麻生藩の御用河岸で、
米蔵や船蔵や問屋などがあり、参勤交代もここから船
で出入りしました。
観音講とは、ネットで検索すると、
①「観音講」とは農村の女性による講の一つで、宗教的な行事
でもあるが、定期的に集って嫁たちが普段の生活では言えない
愚痴を言いあったり、息抜きをしたりという機能もあった。
②子や孫の子宝、安産などを願う神事で、各集落の女性達で
行われています。
観音様の掛け軸をかけ、お供えをして拝みます。
その後、お供えしたものを皆で分け合い会食します。
集まりおしゃべりするのも楽しみの1つになっているそうです。
神事後は観音様が祀られている掛軸で手を合わせます。
③「観音講」とは農村の女性による講の一つで、宗教的な行事
でもあるが、定期的に集って嫁たちが普段の生活では言えない
愚痴を言いあったり、息抜きをしたりという機能もあった。
④観音講(かんのんこう)は、地区によって「待講(まちこう)」
・「つきあい講」ともよばれています。
⑤結婚してから子を生める年齢までの女性が参加する講で
「安産」「子育」祈願のためのものでした。
私が祖母から聞いていた話は、戦後の何もかもない頃、
観音講に子供を連れて出かけたそうです。自分の家か
地域の集会所で持ち回りで、料理を作ったそうです。
農作業や漁業で疲れた体を癒し、おしゃべりをして
おいしいものを食べて、農村の女性たちの息抜きの日
だったと聞いています。
現在でも古宿の女性たちの観音講は、続いています。