エリザベス うっとり
「ちょっといい 陣屋まち」
江戸時代の麻生藩の歴史
麻生の地区には
江戸時代には麻生藩 新庄氏が居城を構え、
家老畑氏の武家屋敷や菩提寺の海了寺が佇み、
今も当時の堀や景観が残っています
入
ると、まもなく麻生地域は一変します。関ヶ原の戦いで西軍に加藤原氏流新
江戸時代に入ると、麻生地域は一変します
関ヶ原の戦いで西軍に加わった藤原氏流新庄氏が
麻生地方に領地を与えられ入部したのでした
元和 5 年には、麻生城の東側の低地を活かし
陣屋を構えます。現在の行方市立麻生小学校です
城下川の自然の要害を改修し箱樋池や鯉千疋川・新川そして河岸を設けました。また、北東部にあった宗之台池から陣屋周辺を囲むように堀を廻らし、重臣たちを堀の内に住まわせました。
家老 三好家 ・・・・・ココ
三好氏は、新庄氏のゆかりの地、近江国周辺において
新庄氏と同格、あるいはそれ以上の家柄や勢力を振る
っていた武将でした
三好家の玄関です
『士族卒身元調査』(三好貞良家文書)では、三好七郎
右衛門は摂津飯盛城主で織田氏に滅ぼされた後、浪人
となっていましたが、新庄直定(なおさだ)と従弟の関係にあったことから新庄家に寄遇したと記されています
現在も、広大な三好家の敷地に咲く花
水仙の甘い香りが、当時を忍ばせます
行方近代農業の父、三好琢磨
明治13年に設立された「弘農社」は、明治政府の開墾
政策に基 づき、行方郡の諸原野の開墾を目的とし、
農事改良を主眼として欧 米農法を取り入れました。
旧麻生藩家老の三好琢磨は、設立時には、 その顧問
となり、明治15年5月、社長に就任しています。
台風で 弘農社の建物が倒壊するなど、行方台地の
自然条件は過酷でしたが、 私財を投じて弘農社の
経営を推進しました
旧麻生藩家老三好琢磨が社長。
現在会社があった所には碑が残っている
(玉造工高の近く)。
農具の製造会社を作る。旧藩士族、旧村役人(今の潮来から玉造にかけて)が参加。
他の社に比し、唯一黒字(途中赤字に転落するが)。
三好はボタン(貝)製造に従事。
貝は、若海(わこうみ)の貝塚のものを使った。
明治28(1894)、解散。
御三家といわれていたほどの家柄です
家老 三好家の前です
麻生藩の家臣像を譬えて巷では「新庄の守りに勝ったる
畠(畑) 神田 三好(舳)なくては舵は取れまい」と
うたわれていました
家老・・・・・畑家
歴史ある城下町を潤す商店街だったの
陣屋の跡地は、小学校になっていますが、
周りは、家老の家が今でもあるの
現在は、麻生藩家老屋敷記念館となっています
豪壮な入母屋造の茅葺屋根が特徴的な江戸時代の
武家屋敷ココ
入口の赤門です
この畑家住宅は役所機能も有し、武家屋敷としては
県内でも数少ない貴重な文化財
江戸時代の麻生藩新庄家の陣屋の跡は現在、行方市
麻生小学校となっています方形の陣屋の敷地そのものはそっくり小学校敷地に受け継がれており、その形状が
よくわかる。
この陣屋地を取り囲むように建ち並んでいたという藩士たちの屋敷のうち数軒は、今も当時の面影をとどめている
麻生藩家老屋敷記念館の後ろに咲く、しだれ桜が満開
その後、麻生地方には麻生藩領の政治文化の中心として鹿行地方では唯一続く小さな城下町<陣屋町>として
江戸時代をとおして栄えました
素晴らしい地域貢献
明治維新まで、この地を守り、現在も観光の名所と
なっている家老たちの子孫が、今も、活躍しています