先日、誕生日を迎えました(私が)
で、その日がなかなかフツーの日で。
フツーに出勤し、
フツーに保育園から呼び出しがかかって
発熱した娘をお迎えにいき、
フツーにお風呂と夕食を済ませて
ケーキを食べて寝る…という
フツーの日だったのですが
その間の出来事。
帰宅してお風呂を沸かしていると
一匹の金魚がフラフラして元気がない
夜にゆっくり調べよう…と思っていると
お風呂あがりにはもう死んでいました
で、ショックで泣いている息子を
なだめながら夕食をとる…という
なかなかシュールな誕生日でした
屋台の金魚って弱りやすいと聞いていたので
覚悟はしていたけれど
ここ最近一気に寒くなっていたりしたので
私も油断していて、申し訳なかったな
「金魚が死んで、悲しいー」
「もう会えないの悲しいさみしい」
「金魚がかわいそうだ残ったもう一匹もひとりぼっちでかわいそうだああ」と大泣き。
そこからは
「死んだらどこへいくの?」
「なんで土に埋めるの?」
「なんで一緒の水槽には居られないの?」
…等々、質問の繰り返し。
4歳に、 |
「死」ってどう伝えればいいのか…
息子にとっては
初めて身近な「死」に触れた瞬間でした。
このテーマって
絵本を探してみても、
説教くさかったり
あまりにも教育的っぽかったりして、
なかなか「これ」というものに
出会ったことがないんだよね。
しかもこーゆうことって
クドクド説明するのが
あまり良いとは思っていない…
かといって
それらしい本を読ませて(いっぱいある)
「考えてごらん」的に言うのも
なんか違う気がする。
どうしようかなあーと考えながら
大泣きしている息子をなだめていると
息子が泣き腫らした顔で
「お空で、お星様たちが見守っているの」と言いました。
大好きなライオン・キングの
ムファサ父さんとの夜空のあのシーンを思っているんだなと気づくと、一生懸命考えている息子が可愛くて仕方ありませんでした。
そうそう、
そうだった。
ライオン・キングの
「めぐるいのち」という考え方が
けっこう好きなんだよ私。
ふと、そう思いました。
死は普遍的で、
例外なくそこにある。
けれど悲観しすぎることもなく、
いのちはめぐるとか、
また会えるとか、
色んな考えを持つことも自由。
(うまく言えない)
…みたいなことをなんとか伝えたくなった。
関連しているようで
していないかもしれないけれど、
自分の中での同じイメージの絵本には
⬇︎これらがあります。
⬇︎これもなかなか。
死とは関係のない話なのかもしれないけれど、こんな世界があるのなら喰われるのも悪くないよねって、希望となりうる。
あと、
とても興味深かったのがコレ。
※それぞれ、理解を示す年齢
死の不動性(動かない)…5歳児〜
死の不可逆性(生き返らない)…4歳児〜
死の普遍性(誰でも死ぬ)…6歳児〜
なるほどなーと思いました。
もう、4歳くらいから、
理解を示し始めるのね。
⬇︎ここには、それらに触れる際の
大人の行動についても記されていて
とても参考になりました。
メモ
・大人が子供に教えることではない。
・その事象に触れた時の大人の行動に大きな影響を受ける。
・毎日の生活の中での体験の認識が大切。
・大人も子供も蓄えが必要。
なるほど…
金魚の死を認識した息子に対して、
自分はちゃんと対応できただろうか?と
考えさせられました。
ずっと弱っていたけれど、
息子が幼稚園から帰るまで
きっと頑張って
待っていてくれたんだと思うよ
「うちに来てくれてありがとう」と伝えようね
金魚も「ありがとう、さよなら」と
言ってくれていたんだとママは思うよ
…なんて話しながら、
あとは寝るまでずっと金魚のことをお話したのでした。
息子が大きくなるまでに、
どれくらいこんな経験をするんだろうなあ
悲しみは多くなくていいけれど、
ただただ普通のものとして
息子なりに捉えて考えられる日がきたらいいなあ。と思った誕生日でした
うちにきてくれてありがとう、金魚さん
安らかに