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詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

ウェス・アンダーソン監督「ザ・ザ・コルダのフェニキア計画」(★★★★★)(2025年09月19日、キノシネマ天神・スクリーン3)

監督 ウェス・アンダーソン 出演 ベニチオ・デル・トロ、その他有名俳優

 リアリティー、なんて関係がない。あるいは、リアリティーとは客観的なものではなく、主観的なもの。そして、このときの主観的というのは、自分だけのもの、という意味である。
 ベニチオ・デル・トロをはじめ、癖のある(個性のある)役者が大勢出てくる。演技をしたがる。しかし、ウェス・アンダーソンは、こういうだろう。「演技? したければ、どうぞ。何をしたっていいよ。私は、フィルムに映った好きな顔、好きな姿だけを選んで編集するから」。
 リアリティーを「現実」ではなく、「真実」と言い換えた方がいいのかもしれない。「真実」はたしかに客観的ではなく、主観的である。そのひとが「ほんとう」と思わない限り、「ほんとう」にはならない。そのひとが「ほんとう」と思えば、それがそのひとにとっての「ほんとう」であって、ほかのことは関係がない。

 こんなことをあれこれ書いても意味がない。

 私は、イントロダクションのあとの、タイトルや監督の名前が出てくるシーンがいちばん好き。飛行機が墜落し、けがをしたベニチオ・デル・トロが、バスタブに浸かって飲み食いしている。看護婦か、メイドか(両方かねているのか)わからないが、白衣の女たちが動き回っている。これを俯瞰のカメラでとらえている。ふつうのカメラのように、ひとの視線の位置から映していない。こういう映像は、ふつうは見ることができない。いわゆる「リアリティー」は、ここにはない。私は、そういう位置から、人間のそういう動きを見たことはない、わけではない。たとえば屋上から街を見下ろして。あるいはビルの内部の広場を、階段から見下ろして。それは「似ている」が、この映画のように「真上から」ではない。だから、断言できるのは、こういう映像は「あり得る」であって、「ある」ではない。「あり得る」はうそかもしれない、でもある。しかし、ウェス・アンダーソンは、それを「ほんとう/真実/リアリティー」として、観客に見せつける。そこには、ウェス・アンダーソンが「見たもの」ではなく、「見たいもの」が「見えるもの」として描かれている。「見えるもの」をとおして「見たいもの」が描かれている。この「見たい」という欲望が「真実/真理(ほんとう)」なのである。
 「見たもの」(記憶)をつきやぶってあらわれる「見たいもの」。誰もが「見た」と思っている「飛行機の墜落する瞬間」なんてものは、もうウェス・アンダーソンにとっては「見たいもの」ではない。あるいは、超ロングスローのバスケットボールのゴール。そんなものは映像にしなくても、観客がかってに想像すれば「見える」に違いない。そんなものではなく、「見たはず」なのに忘れているような、「時間」がとまって永遠になってしまったような「くつ箱(秘密が隠されている)」。形と色を見ただけで、そのなかにあるものが「見える」。(くつ箱に、何か大事なものをしまったことがない人には見えない「ほんとう」)。
 傑作は、ベネディクト・カンバーバッチ。ベニチオ・デル・トロの娘(ミア・スレアプレトン)は実はベニチオ・デル・トロの娘ではなく、父親はベネディクト・カンバーバッチ。その「証拠」は、なんと「目が似ている」こと。で、ベネディクト・カンバーバッチは、目だけが目立つような顔をしている。二人の目が比較されるわけではないから、ほんとうに似ているかどうかなんか、私にはわからないのだが、あの目の撮り方を見ていると「似ている」が「ほんとう」になってくる。ここに、「見たい」の「ほんとう」がある。ミア・スレアプレトンの顔に、ベネディクト・カンバーバッチの目を入れて、そのときの彼女の顔が「見たい」。「見たい」が、「見た」かもしれないにかわる。錯覚。その瞬間、私はウェス・アンダーソン監督に「なる」。

 こんな感想の書き方はよくなかったかもしれないなあ。

 「見たい」の神髄は何か。「ほんとう」は何か。
 それは「美しい」ということである。ここから書き始めるべきだったのかもしれない。すべての映像が美しい。飛行機の内部とは思えないような(古い長距離列車の内部のような)客室。その色合い。墜落したトウモロコシ畑の、枯れた(借り入れを待つだけの)トウモロコシの姿、色からはじまり、会議室の円卓、契約書にサインするひとの動き。このシーンが象徴的だが、ウェス・アンダーソンは役者に「美しい動き」を要求している。「美しさ」が「リアリティー」であり「真実」なのである。役者をとおして、ふつうのひとが持っていない「美しい」瞬間を映像にしている。ただ、突っ立っているだけ。ただ、座っているだけ。「感情」が動けば、「感情」に共感して、そこに「美しい」が生まれることがあるが(たいていは、美とは、そういうものだが)、「感情」に左右されずに存在する「美しさ」を「見たい」。それをウェス・アンダーソンは欲望している。そして、その欲望は実現している。それが、おもしろい。
 ストーリー、ストーリーとともに動く「感情」への共感、というものを、ウェス・アンダーソンは欲望していない。