あるスレッドで「国益第一」ということばを読んだ。そこでは、あまり思っていることを書かなかったのだけれど、これは「こわいことば」のひとつである。
安倍は、選挙のとき、安倍を批判する人に向かって「あんなひとたちに負けるわけはいかない」というようなことを言った。
その前から、自分と考えのちがう人を排除しようとする動きはあるにはあったが、たぶん、そのころから、その風潮が強くなったと思う。安倍にかぎらず、いま高市を支持しているひとは、よく政権を批判している人に対して「中国人のスパイ」とか「害国人」という呼び方をする。そして「日本から出て行け」という。このとき彼らが考えている「日本」とは何だろうか。「日本の国」ではあるが、そのとき彼らは「ひとりひとり個人」を忘れていないか。「国」というものが人間を離れて存在し、同時に「国益」があると考えていないか。「国益にならないから、中国人のスパイ、害国人は日本から出て行け」と考えていないか。
だが、「国益」などというものが、ほんとうにあるのか。「国」に「利益」など、あっていいのか。
「国」というのは、「場」にすぎない。「場」の安全をまもるために「法」があるかもしれないが、それは実は「場」をまもるというよりも、そこに生きている「ひと」をまもるためのものだろう。
ひとがあつまれば、そこにはいろいろな考え方がある。ひとりひとり考え方がちがう。けれども、そのひとりひとりが、互いに安全であるためにどうすればいいのか。「法」が必要になってくる。
「法」の体系が「国」である。
「国益」ということばは、何か、私が考えているものとは相いれない。
「国の利益」のために、ひとりひとりが生きているわけではない。ひとりひとりが自由に、安全に生きていくために「国(法)」があるとしても、それはけっして「国の利益」のためではない。それは「国益」を「法益」と言いなおせば、もっとはっきりするかもしれない。
「法に利益はあるか」「何かすると、法は利益を得るか」
そんなことは、ない、と思う。
いろいなひと、いろいいろな考えが共存してこそ「国」なのに、その共存を可能にするのが「法」なのに、あるひとたちは「考えがちがうひと」を「害国人」と呼び、平気で「出て行け」と叫んでいる。
そういうひとたちを生んだのは、いったい何なのか。
安倍のような、高市のような、強欲政治家(自分さえよければ、「あのひとたち」はどうなってもいいと考える政治家)ではないのか。
安倍が生きていた時代の、あの、とんでもなく苦しく、さつばつとした空気が、また日本に渦巻いている。