池田清子「入口のそのあと」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年10月06日、09月15日)
受講生の作品ほか。
入口のそのあと 池田清子
意識が
身体の一部に集中すると
(二部にも)
とどこおって
とどこおって
(とどこおって)
心の中の筋も
筋の中の
神経も血管も
ひどくはっている
冷たいタオルと
温かいタオルで
なだめなだめて
なんとか
いつのまにか
痛みが
いとおしくなってきた
括弧をどうつかうか。難しい問題だ。この詩では、成功していると思う。身体が痛む。そこに意識が集中する。ほかの部分が「こっちもかまって」と痛む。それが「二部」。ほかの部分といわずに「二部」といったのが、この詩を個性的にしている。その「二部」の主張(声)が二連目で(とどこおって)とこだまのように聞こえてくる。これを「視覚化」している。
ことばの視覚化にはいろいろな方法がある。池田が採用した括弧には、あざとさがない。とても自然だ。
三連目、「心の中の筋も/筋の中の」と「筋」を二重化したのだから、その二重化の中に「二部」がある感じを、おなじことばを繰りかえすことでさらに視覚化するとおもしろいかもしれない。
*
パリ・遺言 青柳俊哉
刑台の渡し木の地獄にかささぎがとまる
わたしはパリを出奔した
森をさまよいながら、人生の半ばで遺言をしたためる
一、わたしを捨てた母に、お伊勢さんの池の端のちちの
遺した雪の日の微動さえしないうま一頭を贈る
あわせてあなたのこたちに帝の赤福を贈る
一、地下の恋人に、こうろこうろとうたううじと、ぶどうと
たけをおる機織り機を贈る
一、ふたたび、わたしを捨てた愛するママンに、セーヌを仲よく
泳いだわたしのやせたまずしいくろいこうし一頭を贈る
地上のパリの炎夏へもどりわたしは出家した
地獄はめぐるばらのはなびらのはるのさかづきのうたげだった
「遺言」は、もちろん架空の「遺言」だが。
最終連、「出家」や「地獄」でおさめてしまうのは、すこし惜しい。まとまり(決着)が詩を綴じてしまう。詩はまとめなくてもいいものだと思う。
詩は、どこからからやってきたことばを「つかまえて」、ただ並べればいい。それに「意味」をあたえなくてもいい。「意味」は読者が「捏造」するものである。
書けるところまで書く、という感じがいいのでは、と思う。
最終連がない方が、こんな「遺言」がありました。「遺言」にこう書いてありました、でいいと思う。「わたしを捨てた母」と「わたしを捨てた愛するママン」は同一人物か。同一人物だとしたら、「母/ママン」を書き分けたのはなぜか。書かれていないことを、かってに想像する、想像力の中へやってくる「ことば」をつかまえる楽しみを読者に提供すればいいのだと思う。
*
さびしさの涙の井戸 堤隆夫
積み荷を降ろして
軽々と生きていこう
宇宙からの風にまかせて
軽々と生きていこう
何にもしばられずに 判断しよう
いにしえから みんないつか来た道
花は無心にして
蝶をまねく
蝶は無心にして
花をたずねる
在りし日のあなたのほほえみが
この秋の空にとけこんで
詩人・八木重吉の素朴な琴は
私に教えてくれる
人間はひとりでいる時しか
はかなくも美しくはありえない琴を
人間のさびしさの涙の井戸を
あなたと共に 汲みあげよう
「軽々と生きていこう」が繰りかえされて、変化していく。ことばが深くなる。
二連目の蝶と花のことばに「まねく/たずねる」の呼応がある。まねかれたら、たずねる。そういう自然な呼応が、「軽さ」というものかもしれない。作為がない。自然に、身をまかせる。「ひとり」であるなら「あなた」を思う。そして、そのときの思いのなかにあらわれるものをことばにする。ことばにして、いまはいない「あなた」に渡す。
そのとき、八木重吉の素朴な琴のように、読者の肉体のなかで、「さびしさ」が鳴り出すだろう。それを「つかみ」(汲みあげ)、ことばにするのは読者の仕事だ。