堤隆夫「生きること 続けること」ほか | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

堤隆夫「生きること 続けること」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年08月08日、09月01日)

 受講生の作品。

生きること 続けること  堤隆夫

あの夏のはじめに
あじさい畑に射した
青い光を
私は決して忘れない

あの日 千年経てば生き返ると
あなたは土気色の顔で
あえかに つぶやいた
「がんばろう」より
「がんばってるよね」の一言しか
わたしには言えなかった

大切な人を失ったかなしみは
穏やかに生きることで癒されるのか

無力な自分を受け入れてきた
無力なままでもいい
無力だからこそ
逃げずに 
あなたのそばにいることができたのだから

今朝 海王星からの青い光が
わたしの眼窩に射した
それは ひとりぼうしに届けられた
生きることを続けるための光なのか

あなたの左心室は
私の胸の底の記憶の中で
今日も 鼓動している

 ふたつのことばに私は驚いた。最終連の「左心室」。心臓に左心室と右心室があることは知識として知っているが、それから先は知らない。つまり、私にとって、それは「区別がない」。しかし、堤は医師である。だから、その区別が明確にわかる。ことばには、その人の意識がそのままあらわれる。あ、そうなのだ、と気づかされる。
 もうひとつは、

「がんばろう」より
「がんばってるよね」の一言しか
わたしには言えなかった

 の部分の「がんばってるよね」。これは、やはり私には言うことができない。闘病しているひとに、「がんばろう」と私が声をかけることはあっても、「がんばってるよね」と声をかけることはない。そうしたことばを言ったことがない。「がんばっている」ことが自分のことのように感じられるのは、やはり医師の長い経験があってのことなのだ。経験者だけが発することのできる温かさがある。
 「がんばってるよね」と言えるまでに、どれくらいの時間がかかっただろうか。そこにはどんな「持続」があっただろうか。
 そういう思いが、自然な形でタイトルの「生きること 続けること」の「つづけること」のなかに反映していると思う。



パリ(人外)  青柳俊哉
 
朝まだき、無人の河岸のこみち 
ワイングラスを傾ける盛装したねずみ
 
午前零時の北国の子りすのような純真に禁止される太陽と水の贈与
 
マルテはこのこみちを歩く きのうしぬためにこのまちへ来た
セ氏42度(きのうママンがしんだ。おそらくきょうはなひらく) 
塔―エッフェルは午後4時に閉鎖した
ヴェネチアからシロッコが吹く
太陽がまぶしすぎるからくろい死が地下にかくれる
 
メメントモリ メメントヴィータ 
 
川の夜のゆたかさと疾さのうえに死ははなひらかない
 
霧のむこうの朧なこみちのほのあかり
数多、誰でもないねむり
 「メメントモリ メメントヴィータ」が印象に残る。「メメントモリ」だけでなく、それに対応して「メメントヴィータ」ということばが動く。ここにはことばの「対応」がある。
 そのほかの行には、こうした「対応」はないが、いろいろなことばの「背景」がある。リルケがいれば、カミュがいる。マンもいる。同時に、さまざまな文学作品が動いている。ことばがことばとしてあらわれてくるとき、その背後にはまたそれぞれのことばが動いている。背後にどんなことばを見るか、どんな経験を見るか。
 堤の詩の「がんばってるよね」に、長い間患者と向き合ってきた経験が動いているように、青柳のこの詩の奥には、文学と向き合ってきた経験が動いている。深い経験というのは、もちろんその人を安定させるだろうが、同時に読者をも安心させる。
 詩は、読者を安心させるものではないかもしれないが、「安心/安定」はひとつの重要な要素だと思う。
 


入口・出口・入口  池田清子

痛っ
痛ーーーーーーーい

原因探しに出かけます
トンネルを
逆方向に

入口が見えない
明るいのだけれど

手探りで
検討をつけて
調べて 図解して
人の力も借ります
YouTubeも見ます

たどり着いたかも
入口に
そこが 出口です

次は
解決方法を探しに出かけます
トンネルを
前向きに

今度は
身体を使うのだ

 四連目の「検討をつけて」は「見当をつけて」が正しいのかもしれないが、「手探りで
検討をつけて/調べて 図解して」とつづくと、「検討」が不思議におさまってみえる。青柳の感想に書いたことばをそのままつかえば「安定」してみえる。池田の、これまでのしのことば(そこにあらわれる池田の人柄=経験)からも、「見当」といういい加減なものではなく、もっと真剣な「検討」が妙に落ち着いて感じられる。
 この妙な感じ(?)を味わうのも、詩の楽しみかもしれない。
 結局、あらゆることばは「人柄」なのである。なんだかんだといって、「文学」を読むことは、それを書いたひとの「人柄」に触れることなのである。
 入口は出口、出口は入口。その、終わりのなさに気がついたあと、「頭」ではなく「身体を使う」というのも、やはり「人柄」だろう。論理的でありながら、絶対に論理を貫くというのではなく、という「ゆるやかな」感じ。それが、いい。