高柳誠『光の階梯/闇の折り目』 | 詩はどこにあるか

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高柳誠『光の階梯/闇の折り目』(思潮社、2025年07月30日発行)

 高柳誠は、もっぱら書肆山田から詩集を出してきた。今回は、思潮社から。どうしてだろうか。たぶん、装幀の関係なのだろう。装幀は中島浩。表紙に使われている写真のバリエーションが詩集のなかにも入っている。もちろん書肆山田から出版しても類似のものはできるだろうが、思潮社の方がそういう分野は「強い」のかもしれない。高柳の「美意識」が反映した詩集ということになる。
 しかし、私は、装幀には何の関心もない。だから、詩の感想だけを書く。
 巻頭の「M嬢のアリア」。そのなかに、こんなことばがある。

           それは喩えれば、ある高速道路を走って
いるとき、みずからは意識をしないうちにバイパスを抜けて、い
つのまにか別の高速道路を走っているといった感覚なのだ。ある
いは、メビウスの輪のように、知らないうちに高速道路の裏側
(そんなものがあるとして)を走っている現象というべきだろう
か。

 「意識しないうち」「知らないうちに」というのは、すこしおもしろいことである。「意識しない」ときも、「ことば」は動いているらしい。「ことば」は、そのとき何によって動いているのか。作者(高柳)の意識に従ってではなく、「ことば」自らの「意識」によって、なのかもしれない。そして、それが、ふいに作者(高柳)に働きかけてくるときがある。ふっと、気づくのである。高柳の「意識」が「ことば」を動かすのではなく、「ことばの意識」が「高柳の感覚」を動かす、「感覚を目覚めさせる」のである。気づかせるのである。
 「メビウスの輪」「裏側」。これは、高柳の意識と、ことばの意識の関係かもしれない。便宜上「表/裏」があるように、便宜上「高柳/ことば」という区別があるだけで、それは「意識/無意識」の区別のように、はっきり区別しようとすれば区別がどんどん見えにくくなる。はっきり区別するのではなく、便宜上、その瞬間に、そう区別するだけのことである。
 この関係をほかのことばで言えばどうなるか。「場所論」に、そのひとつの「ヒント」がある。

この主体と客体との絶えざる交代、かろやかな戯れこそ、自分自
身でありつづけることのできる唯一の方法なのだ。

 高柳の意識とことばの意識。どちらが「主体」で、どちらが「客体」か。それは「絶えず」「交代する」。それは「戯れ」である。「戯れ」とは何か。「目的」がない、ということだ。「いま」があるだけで、それ以外の「時間」がないということだ。「いま」を「運動」に変えることで、「いま」を「永遠」に変えると言ってしまうと、まあ、「間違い」だね。すべては「喩え」である。「喩え」は「喩え」のままでいなければならない。「結論」になってはいけない。「結論」になってしまったら、それは壊さなければならないのである、というのは、私の考えの押し付けであるかもしれない。というのも、ひとつの「結論」かもしれない、つまり、私は間違っているかもしれない。

 「間違い」ついでに。
 詩集のなかほどに「無用の長物」がある。背中に生えた「羽」というか、背中に羽が生えた「わたし」の意識が語られているのだが、読みながら、あ、これを粕谷栄市が「書き直し」したら、どうなるかなあと思った。粕谷栄市の「文体」で読んでみたい気がした。粕谷栄市の詩に登場する「主人公」は、ひとつのことを延々と語る。少しずつ、それが「ずれ」ていく。高柳のことばで言えば「メビウスの輪」のように「裏側」へたどりつくのだが、たどりついてみれば「裏側」ではなく「表側」のような気もする。そういう世界だ。いままで、そんなことを考えてみたこともなかったが、意外と同じことをやっているのかもしれない。高柳と粕谷栄市は。
 (これは、メモのメモ、である。さらに何らか思いついたら書くかもしれないし、書かないかもしれない。)