青柳俊哉「うめのみつみ」ほか | 詩はどこにあるか

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青柳俊哉「うめのみつみ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年07月07日)

 受講生の作品ほか。

うめのみつみ  青柳俊哉

あめのふるあさ
池みずをすぎて
あおもりへさくらんぼ狩りにいく
紫蘇とあおのりのおにぎりをさげて
あやなさんと手をたずさえて
 
あじさいの森の
あおばのかげからきいろいみをみつけて
柔らかいうぶげにくるまれたしっとりしたみの
あおうめのみずみずしいかおりを摘んで
あやなさんの紅がらのたけのかごにつんで
うめのみつの
したたるようなあめのふるあさ

 ことばをどう読むか。ことばから何を読むか。
 今回の青柳の詩は、受講生のなかからも同じような感想が洩れたが、いろっぽいものがある。いつもの青柳の作品とは違う、という意見があった。書き出しの「あめのふるあさ」の「あ」の繰り返し。その「あ」が全体を支配している。「さくらんぼ狩り」なら「山形」でもいいのかもしれないが、「あ」を響きわたらせるためには「あおもり」でなくてはならない。いっしょに行く相手も「みどりさん」ではなくて「あやなさん」でなくてはならない。
 音の交錯では「池みずをすぎて」も美しい。「池みず」ということばがあるかどうかしらないが、その「ず」のおとが「すぎて」の「すぎ」のなかで分裂しながら存在している。「ず」の濁音の要素が「ぎ」に移行し、「す」と清音にかわる。それは「あやなさん」の「や」のなかに「あ」だけがあるのではなく「い」の音もあることにも通じる。
 音が微妙に揺れ動いている。
 そういうことと関係するかどうかわからないが。
 タイトルの「うめのみつみ」は「梅の実摘み」なのだろうけれど、「梅の蜜」「梅の罪」が同居しているように感じられる。「膿の蜜の罪」が隠れているような感じがする。「あやのさん」とも関係してくるのだが、摘んだのは梅の実だけではない、と想像してしまうのである。
 作者が書こうとしなかったことを、「こういうことが書きたかったんじゃないかなあ」と勝手に想像するのは、読者の「特権」である。
 そんなことを思いながら読んだので、最後の一行は「したたるようなあめのふるさと」と読み替えたい気持ちにもなった。「梅の蜜の罪」という青春の郷愁。それが「ふるさと」によって静かに広がるような気がする。郷愁によって「罪」が「罪」ではなく、大切な思い出になる。



八月の砂漠の井戸  堤隆夫

わたしがあなたの手を握るときは
たまらなく 命が恋しいとき
この思いを 銀河鉄道の夜に向かって叫びたい

出会ったことは 偶然の道だった
あなたの無事を祈るわたしの道は 必然だった
もう 他には何にも考えまい 
もう 他には何にも望まない

あなたの母と父の人生は 
わたしの母と父の人生の相似形
あの戦争でトラウマを負った心は
鉄の暴風の記憶 泥まみれの敗退

もう 世間の風になびくのは止そう
先人は言った
砂漠が美しいのは どこかに井戸をかくしているからだよ
目に見えない井戸は 最後の希望

わからないことは わからないままでいい
今から 砂漠の井戸を探しに行こう
もう 他には何にも考えまい 
もう 他には何にも望まない

 堤の詩についても、いつもと違う感じがする、という感想を言った受講生がいた。最後の二行(二連目にも登場するのだが)が「考えまい」「望まない」と、読者への呼びかけではないからかもしれない。「望むまい」と「まい」でそろえた方が、もっとその印象が強くなると思う。自分自身に言い聞かせる印象が強くなると私は感じる。
 そうしたことと少し関係するのだが、三連目の「あの戦争」の「あの」は、どの戦争か。いま世界で起きている戦争と読んだ受講生もいたのだが、「あの」という指示詞は、自分が知っている、そして相手も知っているときにつかう。「今度、パスタがおいしかったあのレストランへ行こうか」「商店街の入り口の、あのレストランだね」。こういう会話が成り立つのは、ふたりのあいだに話題のレストランが「共有」されているからである。ここでは堤が読者と「共有されている」と考えている戦争が「あの戦争」であり、タイトルの「八月」に結びつけるならば、「あの八月に終わった、あの戦争」である。第二次世界大戦である。
 その「あの」は、一連目の「この」思いと対比されている。「この(私の)思い」。そういうものがある一方で「あの戦争」がある。
 だからこそ、その次に、書かれていない「あの」が登場する。「あの」が共有されたものであることを前提として、共有されたひとつの夢が提示されている。「砂漠が美しいのは どこかに井戸をかくしているからだよ」は、「あの、星の王子様」に出てくることばである。誰もが知っている、ということを前提としているから、その一行には注釈がない。もちろん知らない読者がいてもいい。しかし、堤は、ここでは読者はそれを知っていることを前提として書いている。
 その上での、最終連。
 「まい」について、私は最初に「自分自身に言い聞かせる」と書いたのだが、このときの「自分」とは堤だけではなく、「私とあなた」かもしれない。だからこそ「探しに行こう」という誘いかけがある。直接読者に呼びかけるのではなく、「あなた」を誘うことで、読者を誘っている。ことばのトーンが、静かになっている感じがするのは、このためでもあるだろう。



休息  カロッサ

正午の光があんまり熱いので
われらは、足を留めて休み、
革帯をゆるめ
かたい靴を脱ぐ。
われらは、しばし避難する
われらの疲労そのものの中へ。
肉体の枝々の中をめぐり流れる
或るおぼろげな火花の流れが
われらに、眼を閉じさせる。
眼なざしは
湧いて来る緋の色の朱らみをくぐって
内部の星座の
奥深い涼しさの中へと沈む。

 ひとつのことば、だれもがつかうことばを、どう読むか。たとえば堤の「あの」をどう読むかという問題は、この詩では「われら」をどう読むかにつながる。なぜ、なぜ「私(単数)」ではなく「われら(複数)」なのか。さらに原文が複数だとしても、なぜ「私たち」、あるいは「われわれは」と訳さなかったのか。
 複数が要求されるのは、なによりも「戦場」である。「戦争」である。一人では戦えない。「私たち」「われわれ」には一種の「気取り」がある。「われら」にはある種の「卑下」がある。だれかにつかわれている感じがする。
 もちろん私がいま書いたような感覚を共有しないひともいるだろう。
 しかし、共有するひともいる。訳者は、そういう言語感覚を共有するひとに向けて、ことばを発している。
 「革帯をゆるめ/かたい靴を脱ぐ」には、「肉体感覚」がある。「われら」は「肉体」を共有している。個人の肉体だが、肉体の苦痛を共有している。それがどんどん鋭敏になっていって「肉体の枝々の中をめぐり流れる/或るおぼろげな火花の流れ」という表現になる。
 読者の何人が、これを「追認」できるか。わからない。しかし、そうした「肉体感覚」を知ってほしいと思い、カロッサは書いたのだろう。ここには、他人の、同じ戦争を戦った人間への信頼がある。「あの」感覚、わかるだろう? という呼びかけがある。
 これを「共有」するとき、戦争はなくなるかもしれない。戦争の「指揮者」は、この肉体感覚を共有しない。そこが、戦争のいちばんの問題点だろう。

 
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