小倉金栄堂の迷子20250630 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 ピカソを見る。そのときの興奮。それは、ピカソが描いているものを見たことがあると思い出すことだ。台所で猫が魚をくわえている。人間に見つかってしまう。あ、まずい、という顔をする。その瞬間の、引き裂かれた感情。歓喜と後悔。それは、猫ではなかったかもしれない。悪事をしているのを見つかったこどもかもしれない。(いや、こっそりと手帖を盗み見したのを見られてしまったことばの顔かもしれない。そう、手帖を盗み見したのを見られてしまったことばを主人公にして、詩を書かなければならない。)あるいは、鳩の雛をのみこむ蛇の体のくねりかもしれない。(盗み見を見つかった瞬間、からだをくねらせたことば、その裸のわきばら。)しかし、猫かこどもか蛇かに関係なく、それを「見た」と思い出す。「見られた」という意識を「見た」と思い出す。修正できないものが、そこにある。一瞬なのに、けっして消えないのは、それが修正できない後悔が刻印されているからだ。(あらゆることは、修正され、整頓されて、事実から離れてしまう。)修正できないもののなかにだけ事実がある。事実は、修正できない、取り返しができない。--この文章は乱れているが、乱れた形でしか書けないことがある。修正すれば、失われるのだ。だから、書き直さない。修正しない。しかし、修正しない正しさを、ことばは、ピカソから学んだと、書いてはいけないということばは、削除されなければならない。