ニキータ・ミハルコフ監督「黒い瞳」(★★★★) | 詩はどこにあるか

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ニキータ・ミハルコフ監督「黒い瞳 4K修復ロングバージョン」(★★★★)(2025年06月29日、KBCシネマ、スクリーン2)

監督 ニキータ・ミハルコフ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ、犬、グラス 

 マルチェロ・マストロヤンニには庶民的なにおいがある。ジャン・カルロ・ジャンニーニは下品だが、同時に貴族的な豪華さをもっているが(アラン・ドロンもおなじ)、マストロヤンニは豪華さがない。それが、おちぶれた中年を演じると、とてもおもしろい。貴族的な部分がないというのは、どこかこどもじみたものがあるということでもあり、それゆえに、誰もが(観客だけではなく、映画のなかの登場人物も)、マストロヤンニを許してしまう。犬さえも。
 で、この映画は。
 マストロヤンニは、その貴族的なものと庶民的なものの、あいだを行き交う。同時に、イタリア的なものとロシア的なものとのあいだを行き交う。庶民的であること、イタリア的であることを捨てて、貴族的、ロシア的生活に身を沿わせることができれば、違った人生を歩めるのだが、どうも「地」が出てしまうのである。
 見どころは、したがって、マストロヤンニの演技に尽きるのだが、それを巧みに浮かび上がらせるのが、「物語」をマストロヤンニが船の客に語るという構図である。主要な場面のあいだに二人の対話があり(つまり客観化があり)、そのあいだにマストロヤンニの主観的叙述が入る。男二人の対話は、「時間」と「場」をくっきりと区切る効果を上げている。マストロヤンニの「主観」が、そのことによってより「主観的」になっていく。
 この「主観的」叙述に関して言えば、ミハルコフの腕はさえている。「主観」の美しさを存分に引き出す。マストロヤンニが女と「約束」をしたあと、イタリアへいったん引き返すことになる。そのときロシアの平原を馬車でゆく。これが、とても美しい。どこまでもどこまでも、風のように走っていく感じがいい。その前の、川を渡る部分で苦労しているだけに、この疾走感が、ほんとうに気持ちがいい。
 ふと、舞台は違うのだが、ミハルコフの「ウルガ」をもう一度見たいと感じた。そういうことを感じさせるのは、この映画がマストロヤンニ出演の映画というよりも、ミハルコフ監督の映画だという証拠かもしれない。
 まあ、その気持ちよさをマストロヤンニも共有しているのではあるのだが。つまり、マストロヤンニに、彼自身の思い出として何があるかといえば、こどものときに聞いた母の子守歌、そしてロシアの霧と言わせているのだが、その二つが融合して、そのシーンに展開する。さらに、そこにマストロヤンニの役名「ロマーノ」の意味を「ローマ」から「ジプシー」に転換するようにロマが登場する。マストロヤンニは「ロマ」のように人生を放浪しているのである。「自由」にあこがれ、「自由」を手に入れることができずに、苦悩している。で、また「ウルガ」を思い出す。あの、自由を。
 時代はすでに貴族の時代ではなく、また放浪(ロマ)の時代でもない。
 で、その「自由」ではないことの象徴として「トレーに載せて運ぶグラス」(あるいは「トレーに載せてグラスを運ぶこと」が描かれているのも、とてもおもしろい。マストロヤンニは何度も「グラス」を運んでいる。ローマの妻の家ではもちろん、妻に従属する夫を象徴している。ロシアの女の家では、その運んでいたグラスを家畜小屋の鶏の羽根が積もった場所に捨てる。そこから、明確には描かれていないが、女とのセックスがはじまる。二人の幸福を象徴するように、羽毛が光を浴びながら舞う。ラストシーンでは、話し相手の男の妻が、マストロヤンニが愛しながら捨ててしまった女だとわかる。そのとき、マストロヤンニが運んでいたグラス(あるいは食器)が、マストロヤンニが動転したためにトレーから落ちる。床にぶつかる前、宙に浮いた状態で、映画はおわる。
 ほかにも「小道具」があるかもしれないが、この伏線は、自然で、とても美しく、衝撃的でもある。チェホフの短篇を題材にした映画だが、いかにも「短篇」という感じのおわり方で、これもとてもおもしろい。最近は、こういう、あざやかなエンディングを見たことがない。