九段理江「東京都同情塔」(文藝春秋、2024年03月号)
九段理江「東京都同情塔」は第百七十回芥川賞受賞作。AIの文章が活用されているとか。そのことへの「好奇心」で読んだのだが。読んで、時間の無駄だった。
この作品は「ことば」が重要なテーマになっているのだが、そのテーマは「ストーリー」として動いているだけで、哲学の深みに降りていかない。
名前は物質じゃないけれど、名前は言葉だし、現実はいつも言葉から始まる。
という一行がある(306ページ)。小説のタイトルにもなっている「東京都同情塔」という名称に関する考えを述べた部分だ。登場人物のひとり、女の建築家の口をから出ている。九段が思いついた一行なのか、借り物の一行なのか、わからない。わからないが、私は「借り物」と判断している。「現実はいつも言葉から始まる」というのが九段の、あるいは登場人物の考えていることなら、もっと真剣にその論を展開するだろう。つまり、持続的に、そのことばを展開しつづけるだろう。しかし、その重要な問題は、単に「ストーリー展開」のための「道具」になってしまっている。
それにしても。
この小説には主要な人物が四人出てくる。人間は三人だが、ことばをあやつるAIがいる。私は「ことば=人間(肉体)」と考えているので四人と「定義」しておく。問題は、その四人の「ことば」が「同質」なのであある。別人に感じられない。女、若い男の日本人、アメリカ人(だったかな?)とAI。これが「目の前」にいたら、すぐにこれが女、これが若い男、これがアメリカ人、これがAIとわかる。それが小説では、「主語」を探さないと、だれの「ことば」なのかわからない。(AIのことばは、ゴシック体で印刷されているので、それは「見かけ」でわかるといえばわかるのだが。)
「現実はいつも言葉から始まる」というのなら、女である現実、若い男である現実、アメリカ人である現実、AIである現実は、そのことばとして、小説の中に明確に存在しないといけない。「選評」を丁寧に読んだわけではないが(つまり、読み落としているのかもしれないが)、選者のだれひとりとしてこのことを問題にしていない。「ことば」を商売にしている作家が、こんな肝心なことを問題にしないのは、どういうわけなのだろうか。
あらゆる賞が商売のためである。芥川賞は本を売るための「道具」である、ということを理解していても、ちょっと、これはひどい。ひどすぎる。AIを小説に持ち込んだ、それをアピールすれば売れる、ということで選ばれたのだろう。もちろん、だれもそんなことを露骨に書いてはいないが。そして、この作戦は見事に的中しているのである。ミーハーの私は、その作戦に乗って、文藝春秋を買ってしまった。
前回の作品も、かなり「商売気」の強いもので、ミーハーの私はセックス描写の覗き見的な感じにつられて買ってしまったが、読んでもまったく性的興奮を感じなかった。まるで、「セックス説明」のような味気ないものだった。この「東京都同情塔」にもセックスらしきものは出てくるのだが、これもまたぜんぜん興奮しない。これって、結局、人間の肉体が描けていないということ。肉体のない人間なんていないはずなのに、作者の九段も、選考委員の作家たちも、そのことに気がついていない。
いっそう、芥川賞の選考をAIに任せてしまえばいいのではないか。「AIが選ぶ芥川賞」の方が、もっと本は売れるだろう。