青柳俊哉「至高、ゆらぎ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年05月19日)
受講生の作品ほか。
至高、ゆらぎ 青柳俊哉
月の光に藤壺がゆらぐ
ひとはいなく、一億年前に蟻はバラの花を運びつづけていた
とひとは云う
生物は永遠のために生きない 蝉は泣かない
一億年の不連続があり、そしてひとは蟻はいない
思考の、指向性の
豪華なバラのあやまりの連続
月の光がゆらぐ 壺はみえない
わたしがいる そしてわたしはいない
生の縞々が月にゆらぎ 藤はバラはみえない
世界がみちみちて きえ
愛の蝉がなきはじめる
ことばが多い、という感想があったが、それが私には印象的だった。ひとつのことばが別のことばと出会い、それぞれのことばが深まっていく。深まっていくのは「意味」のこともあれば、「意味」以外のこともある。色が重なることで別の色になるように、イメージが重なることで新しいイメージが出現するということもあるだろう。
「ひと/蟻/バラ」と「一億年」に絞り込んでしまうと、世界は単純になってしまうだろうか。先へ進むのではなく、立ち止まる、ということばの運動も読んでみたい。「連続/不連続」があり「思考/指向(性)」が変化するという展開を読んでみたいという気持ちを誘われる。
*
わが街 杉惠美子
窓越しに 高層ビルが立ち並ぶ
まるでおもちゃみたいで
街路樹は 遠慮がちに緑を誇り
その影に小さな球根の芽がのぞく
隣り合うビルの間から
音のない騒音の渦が 天に伸びる
地面からの唸り声が 天に伸びる
人は下だけを見ている
新しい都市は
海や山や河のエネルギーをわずかづつ
粉砕しながら
それでも 時折 小さな扉を開けるのに
苦労している
どこまでいくのだろう
もうすぐ日が暮れる
いま福岡(天神)では新しいビルがつぎつぎに誕生していることもあって、そのことと結びつけながら自然保護を訴えているという声もあった。その都市のなかの自然「小さな球根の芽」と「小さな扉」の「小さな」が重なり合うところが、この詩のポイントかもしれない。「小さな」は重なり合うのではなく、作者(ひと)が「重なり合わせた」のである。だから、そのあとに自然に「苦労」ということばも出てくるのだと思う。
最終連は都市の姿ではなく、作者の姿になるだろう。また、それは同時に都市の姿へとも帰っていく。循環する。循環するからこそ、自然破壊は自分の問題にもなる。
*
愛する人の横顔を見ているだけで 堤隆夫
人は 愛する人の横顔を見ているだけで
胸の内で 泣いていることがある
遠く知らないところで
心を射抜く 年老いた蒼き狼の眼差しを見た
遠く知らないところで
蒼く燃えている 漁り火を見た
あの日の朝 縄文の世からの東風が 私の感しみを運び去った
それは 逝きし世からの恵みだったのか
はたまた この星からの慈しみの恵みだったのか
凍える冬は 燃える春の予兆だったのか
ともあれ 北風の彼方に去った人を 責めることはできない
かそけき硝子細工の胸郭から 漏れ出ずる吐息を 見逃さなかった
わたしもあなたも いのちの最期の蝋燭の火を消すことはできない
嗚呼 この星は正しく燃え続けているのだろうか
三十六億年の命の灯火は 燃え続けているのだろうか
人間なしに始まり 人間なしに終わるその日まで
この星は 人間の愚かな所業を見つめて 泣いているのだろうか
理不尽と不条理を見つめて 泣いているのだろうか
人は 愛する人の横顔を見ているだけで
胸の内で 泣いていることがある
「不条理」ということばを手がかりに、「不条理の反対は愛」であると、詩の核心をつく感想が聞かれた。一連目の二行が印象的で、それが最後に繰りかえされるのも、印象を強くしている。
私は、このしては五連目の「正しく」ということばに衝撃を受けた。堤がこれまでも「正しい」ということばをつかっているかどうかは思い出せないが、常に「正しい」を意識しているのだと思う。「嗚呼 この星は正しく燃え続けているのだろうか」は次の行で「三十六億年の命の灯火は 燃え続けているのだろうか」と言いなおされるが、そのとき「正しく」は省略されている。それは逆に言えば直前の行は「嗚呼 この星は燃え続けているのだろうか」と「正しく」が省略されても「論理」としては変わらないと思う。しかし、詩は論理ではない。論理の経済学を踏み外しても言いたいことばがある。それが「正しく」であり、それは堤のキーワードということになるだろう。そして、この「正しい(正しく)」は一連目の「胸の内で 泣いていることがある」の「泣く」と関係している。直接、結びついている。「正しさを求めて泣く」。それが堤の生き方になる。「理不尽と不条理を見つめて 泣いているのだろうか」という一行は、「正しくなりきれていないもの/正しさを求めて苦闘しているものを見つめて 泣いている」ということだろう。
「愛する人」をみつめて「泣く」のは、「愛する人」が堤と同じように「正しさ」を求めているからだろう。「正しさ」を傷つけるものが世界に満ちていることを知っているからだろう。
「正しさ」を求めるものへの共感と連体が、堤の詩を動かしている。
*
風 岡安恒武
それとも
たれとおしやべりしてるではなく
かといつてひとりごとしてるでもない
そのくせ
やつぱりおしやべりしている
それがうただと
いわれてみればうたでもあるが
そんなのうたではないと
いわれたにしても
かぜのように
やがてあかるいところから
ぼくはうたつてくるだろう
もうぼくではなく
ぼくでないぼくでもありはしないと
やがてやつぱり
かといつて
それとも
なんにもありはしなかつた
かぜのように
湿原「ひかるもの」
三連目で「千の風になって」を思い出した受講生がいた。「ぼく」の繰り返しに目を止めた受講生も。
この詩には「それとも」も繰りかえされている。書き出しが、いきなり「それとも」である。「それとも」というとき、何かが了解されていないといけない。その了解されているはずのものを省略して「それとも」とはじめる。どうしても言いたいことがあるのだ。それが「ぼく」の洪水になってあふれだす。「そのくせ」、あふれてしまった後、言いたいことはなかったと気づく。しかし、この「なにもありはしなかつた」は反語である。「あった」ことを知っているから「ありもしなかつた」と言いうるのである。
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