谷川俊太郎『別れの詩集』(14) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『別れの詩集』(14)(「谷川俊太郎 お別れの会」事務局、2025年05月12日発行)

 「どこ?」は、長い詩である。

ここではない
うん
ここではないな
そこかもしれないけれど
どうかな

 書き出しの「ここ」は「場」を指し示している。それを探している。そして、その「場」については、こう書いてある。

「場」があることだけはたしかだから
うん
そうおもっているものたちはまだ
いきのびているはずだ
そこここでことばにあざむかれながら

 「いきのびている」ということばと対比する形で考えれば、「ここ(場)」は「いきのびていないも(死んだもの)」のたどりつく「場」なのかもしれない。
 しかし、こんなことを「論理」でつきつめ、「結論」を出してみても楽しくない。私はいつも「結論」を求めない。ただ、好き勝手にあちこちを、つっついて「遊ぶ」。つっつくところは、その日の私の体調(気分)しだいだ。私は、いつでもそうする。どんなふうにしたって、思っていることは(思ったことは)書きつくせない。「結論」にたどりつかない。「結論」にたどりついたとしたら、それは私が私に嘘をついているからだろう。谷川がつかっていることばを借りて言えば、私が私に「あざむかれ」たとき、そこに「結論」が出現するということになる。
 ことばにはたどりつけないものがあって、はじめてことばである。注釈だとか、解釈だとか(感想もそうだけれど)、その、そこに書かれていることばだけでは書きつくされていないものを感じるからこそ、そこにはなかったことばが動いて注釈や感想になる。つまり谷川が書いているかもしれない「結論」を否定しながら、私のことばが動くとき(「結論」を求めず、「結論」を拒否して動くとき)、それが解釈や感想になる。
 この詩でおもしろいのは、「うん」というあいづちだ。このあいづちの相手はだれなのか。もし、「場」が「死んだもの」がたどりつくところなら、あいづちがある限り、そこには「同行者」がいる。その「同行者」はだれかではなく、谷川自身かもしれない。ひとりで対話している。もうひとりいると、自分をあざむきながら対話している。ことばには、そんな仕事ができる。自分をあざむくためにこそ、ことばがある。自分をあざむくことを「考える」と言いなおしてもいいかもしれない。ほんとうに生きているときは「無我夢中」、つまり考えたりしないからね。
 長い詩のなかでいろいろ書いているが、「うん」というあいづちが「そう」にかわったあと、こんな連が出てくる。

〈そう〉は〈うそ〉かもしれないとしりながら
きのうきょうあすをくらしているのが
きみなのかこのわたしなのかさえ
ほんと
といかけるきっかけがみつからない

 この連が、さみしくて、好きだなあ。「そう」が「うそ」にかわり、それが「ほんと」にもう一度かわる。この「ほんと」は、あいづちではないね。相手にむけたことばではないね。それが、たとえ自分がつくりだした相手であっても、相手に向けてはいっていない。駄洒落みたいでもうしわけないが「ほんとのわたし」に向かって言っている。
 「お別れの会」で吉増剛造が「ひとりぼっち」ということばをつかっていた。脈絡は忘れたが、そのことばをはっきり覚えている。谷川俊太郎は、ひとりぼっちのひとだと思う。それこそ「二十億光年」を生きたのだと思う。そんなに長く生きたひとはいないから、ひとりぼっちでいるしかない。そして、「二十億光年」も生きているのだから、私が死んでもまだ「生きている」ということだろうなあ。

「場」がいきなりことばごときえうせて
うん
ときがほどけてうたのしらべになったとき
わたしはもう
いきてはいなかった

 「ことばがきえうせて」も「ことばはきえうせ」たと書く「ことば」残る。「ことば」を「谷川俊太郎」と書き換えると、どうなるだろうか。谷川俊太郎はきえうせても、谷川俊太郎はきえうせたと書く(書いた)谷川俊太郎は残る。それを書いている(書いた)のは、うその谷川俊太郎か、ほんとの谷川俊太郎か。「ほんと」は、どこにある?
 ことばは、はてしなくつづけることができる。