池井昌樹『理科系の路地まで』(21)(思潮社、1977年10月14日発行)
「陽油キネマ」には「コロ」が登場する。飼っている犬だろうか。「コロの腹に陽炎が点っている/コロの腹をきいろぷるりの液体陽油が/上から下へ通過する」と始まり、
ああ 実に なんという日だろう
これほど 人がいない日は
黒黴つやの階段がはっきりし
青さんや 西さんや 右さんが
にょっきりと顔を出しそうで
なんとなく宮沢賢治みたいだ。特に「青さんや 西さんや 右さん」が。私の推測が正しいと仮定してのことだが、こういう痕跡が私は好きだ。ことばは、ことばをつかい始めたとき、すでにそこにある。そして、そこにはつかったすとの痕跡が残っている。ことばは、もの(対象)と結びついているというよりも、つかっているひとと結びついている。「ことばはひと」なのである。
だから、と私は少し脱線してみる。
私は外国人に日本語を教えているが、そのテキストは、たいていがつまらない。短文をあつめて、文法を説明している。しかし、それでは「ひと」が見えてこない。ひとが見えてくるためには、つまりことばがわかるためには、そこに具体的なひとがいないとだめなのである。どんなこどもでも、その国のことばを簡単に覚えるが、それは母とか父とか、具体的なひとのことばのつかい方をとおして学ぶ。ひとの、生き方を学ぶのである。文法を学ぶのではない。だから、語学を修得するには、ある先生、ある作家のことばにつきあい続けて覚えるのがいちばんいいのである。ことばをとおして、ひとの考え方、感じ方を肉体にしみこませる。池井の肉体には、宮沢賢治がしみこんでいる。ほかにも多くの詩人の生き方が池井のなかに存在するが、初期の詩には宮沢賢治が動いている。
宮沢賢治の肉体と通じるけれど、もちろん違うところもある。池井の肉体のまわりには、父や母や、それから「コロ」もいるからね。
コロの腹は
液体陽油のエッキスで
ゼラチンのようにすきとおって
ひどく充実した水素のようで
時おり きらきら
あちら側の入道雲が反射したりして……
そうしてまた
風吹けば とぎれ とぎれて
風やめば ゆらゆら
ただいま上映中
ひとけキネマのひるさがりです
この最終連では「あちら側の入道雲が反射したりして……」の「反射する」という動詞のつかい方が、私は好きだ。また「風吹けば」「風やめば」の対句構造も好きだ。「反射する」という動詞のなかには、何か「対句」に通じるものがあるかもしれない。ある存在があり、その反射かある。「反射」は「対句」を含んでいる。「あちら側」があれば「こちら側」がある。そして何よりも、その「対」を結びつけるものが存在することになる。その結びつけるものとは、池井の肉体であり、池井の肉体にしみこんだ「ことばの肉体」である。たとえば宮沢賢治のことばの肉体、というものを私は考えている。