池井昌樹『理科系の路地まで』(17)(思潮社、1977年10月14日発行)
「六月幻想」。
ひやっこいおもたいゼリービンズ
ぼくが歩くたびに
ふろっふろっととろつく夜気
紫色の六月の寒天
この書き出しにかぎらないけれど、池井は複数の形容詞を助詞をつかわずにつないでしまう。ひやっこく「て」おもいたい、とは書かずに「ひやっこいおもたい」。なぜか、それは池井が書きたいものが「ひやっこい」と「おもいたい」が区別できるものではなく、ひとつにとけあっているものだからである。池井の肉体の中では、あらゆる存在が「ひとつ」にとけあっている。それが少しずつ、ことばを発する順序で肉体の奥から「あらわれてくる」のだが、そのときの「あらわれかた」の「学校文法」のように整理したくないのだ。できるかぎり肉体のなかにあるままの状態にしたいのだ。
「ひやっこいつめたい」は「とろつく」を呼び出すことで「ゼリー」と「寒天」をくっつけてしまう。
この融合は「気配」であり、そのあり方は「におい」に似ている。明確な形がない。「学校文法」が修正する「散文的整合性」がない。「あいまい」でゆれながら重なり合う。それを象徴するように「気配」と「におい」が二連目でつかわれる。
どこかに池の気配
しじまにも起きている田螺の気配
誰も見ていない蚊帳みなもに
ぷつうんと 底から図鑑のにおいの通信
しかし、私が二連目を先取りする形で書いたことは、「後出しジャンケン」のような辻褄合わせの「論理」であり、そんなものに「意味」などない。
途中に、
たくさんの たくさんの 白金の 太古の 恐ろしい
しんとした ふぃんらんどの 白夜の すさまじい
ためいけの気配
と突然「ふぃんらんど」が出てきたかと思えば
田舎の道 汽車に乗ってく
町のクリスマスのゆめみるような
青いのと 黄色いのと
ひっそりとしてつりさげられる
シャガールの ぴりんの木の枝
六月なのに「クリスマス」も出てくれば「シャガール」も登場する。ここに「散文論理(ことばの相互の意味の連絡)」を求めても、何もみつからないだろう。そんなのは探してはいけないのだ。
ひにかけのうみにうかんだりんかくしかないくらげみた
いに
紫色の六月の寒天に溶け込んでいるのに
どこかではっとする自分のうごめきにおどろきたのしみ
池井は、自分自身を「おどろきたのし」んでいる。それを納得すれば十分なのだ。幼いこどもが一人遊びをして、ひとりで喜んでいる。笑っている。そのとき幼いこどもはきっと何かに「おどろきたのし」んでいる。それは、もしかすると幼いこどもの「肉体」のなかから出てきたものに対する反応かもしれない。