池井昌樹『理科系の路地まで』(15)(思潮社、1977年10月14日発行)
「夢魔の集合」。
あつい日 線香の立つ日
祖母が相撲の本を買って帰って来る
これはほんとうのことなんだろうなあ、と思う。私は父方の祖父母も母方の祖父母も知らない。私は両親が年をとってから生まれたので、生きているときに会ったことがない。というようなことは、どうでもいいことだが、池井の詩には「家族(家庭)」がよく出てくるなあ、と思う。池井にとって、あらゆる存在が「家族(血縁)」なのかもしれない。
あつい日 おかああさん
久方ぶりに ラジオなど点けないでください
この詩が書かれていた時代、すでにテレビはあったが、そうか、池井の家では、ラジオで相撲放送を聞くこともあったのか、とぼんやりと思う。ラジオで相撲放送を聞くとき、ひいきの力士もまた「家族」になるのかもしれない。
「恵比寿様の春」。
僕の顔から うおのめ のように
まっとり うめの芽が もりあがる
新芽は 体にも 内臓にも
鼻の穴にも 脳味噌にも
まっとり ももいろの顔を出し
なんだかよくわからないが「まっとり」が重くて、嫌な感じがする。「芽」もまた「家族」であり、池井の肉体のあちこちに「家族」であるあかしを吹き立たせる。こういう不定形の詩は嫌いなのだが、
すきとおった やわらかな 樹皮の内部に
すいあがる なまぐさい なまぐされの養分
うつくしい 七色そうめんの 僕の 食欲
この三行は不思議だ。「すきとおった」ものと「なまぐさい」ものが出会う。私の感覚では、それは異質なものの出会いにしか感じられないのだが、そこから「うつくしい」があらわれ、それは「七色そうめん」という形をとる。そうめんはたしかに「すきとおった」冷たい水に似合う。しかし、ゆだったそうめん、水で洗う前のそれははどこか「なまぐさく」もある。水に洗われて「うつくしい」ものにかわるが、そのそうめんにはときどき色がついている。青とか赤とか。七色あるわけではないが、青とかかがあれば、そこからほかの色が呼び覚まされて七色に増える。
これを「食欲」で受け止めるところが、なんとも「肉体的」。あるいは「内臓的」。池井の詩にあらわれる「気持ち悪さ」は内臓(見えないけれど存在し、命をささえているもの)に通じる気持ち悪さかもしれない。そして、その生命力は、やはり内臓的かもしれない。頑丈な内臓が池井の肉体を動かしている、それがことばに反映していると感じる。