批評するとは、どういうことか。 | 詩はどこにあるか

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詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 いま東京の歌舞伎座で八大目菊五郎の襲名披露歌舞伎が公演されている。私は歌舞伎などめったに見ないが、その歌舞伎について、こんな批評があることを教えてくれた人がいる。私が歌舞伎について「素人感想」を書いたからである。

 菊五郎の富樫は、最初の名乗りのせりふ廻しが、思いの外深い声が出ていいが、弁慶とのやり取りはすでに触れた通り、團十郎との噛み合いが思ったほどではない。技術の問題ではなくこの人のニンの問題なのだろう。六代目菊五郎、梅幸、七代目菊五郎と音羽屋の父祖四代、富樫よりも義経のニンなのである。

歌舞伎の歴史にも、また『娘道成寺』の上演史にも残る"名舞台"の一つになった。玉三郎の力添え、菊五郎の実力、菊之助の天晴れ、三位一体の歌舞伎の夢幻境が生まれた、この奇蹟的な舞台を讃えたい。筆者の観劇史上、十指の内に数えられる"夢舞台"である。

 書いた人はそれぞれ別人なのだが、共通することがある。「用語」の問題である。
 「ニン」という評価基準、さらには「力添え」「実力」「天晴れ」という評価用語は、私には、歌舞伎批評界の「用語」に思える。
 こういうことばをつかえば、歌舞伎通のなかでは「意味」が共有されるのだろう。いわば「内輪のことば(隠語)」だろう。特に「ニン」ということばなど、歌舞伎役者以外の演技を評価するときにはつかわれないだろう。
 こういう「用語(隠語)」をつかう効果は何か。「仲間性」の強調である。「私は、この世界を知っている」というアピールでもある。そういうことは、まあ、書いた人がそれで満足なら、それでいいとは思うが。
 もうひとつ問題がある。
 こういう「用語」をつかうと、批評が簡単に書ける、ということである。「批評経済」としてとても楽だ。労力をつかわなくてもいい。自分が感じたことを、その一回性の気持ちをことばにするために、ことばを選ぶという苦労をしなくてすむ。書く人は楽である。しかし、「楽」なものは、読んでいておもしろくない。
 歌舞伎にしたって、役者が「楽」に動いていたら、その演技派おもしろくない、というか、美しくない。
 もう二十年以上前だが、博多座がオープンしたとき、藤十郎の「娘道成寺」を見た。毬をつくシーンがある。毬はもちろんない。手で毬をつきながら、ひざを曲げて、動く。背中はすっきりと伸びている。丸くならない。その動きは、一瞬なら、遊んでいるこどもでもできる。しかし、それを持続させるためには、足にも腰にも背中にも、非常な無理がかかる。役者は苦しいはずである。だから、それが美しく見える。役者の肉体の苦しみが、美しく見える。
 同じように、批評のことばも(あるいはほかの文章表現も同じだが)、筆者がそのことばをつかみだし、そのことばの高みを維持しながら動くときに「美しさ」があらわれる。「楽」をして書いてはいけない、ということである。「手抜き」をしてはいけないということである。
 こう書いてしまうと、書いたことばがそのまま自分に跳ね返って来るような感じもするが、書いておく。
 歌舞伎以外、たとえば私が書いている分野(詩や文学の批評)でも、「手抜き」はたくさんある。
 いわゆる「抒情詩」についてなら、「繊細な感受性が各行ににゆきわたっていて、筆者の清らかな悲しみがせつせつと感じられる」、さまざまな文献を引用した評論についてなら「古今東西の文献に踏み込み、それを独自の論理に統合する言語運動に、驚き、感心し、非常に多くのものを学ぶことができる。新しい批評がここからはじまる」というようなことは、1ページ読んだだけで書くことができる。つまり、読まなくても書いて、筆者を喜ばせることができる。私がいま書いたような文書を読んで、人生の悲哀を書いた抒情詩詩人、現代の文学に新しい批評を展開していると自負する評論家が、「私の書いたものを全部読んでから批評してくれ」と苦情を言うとは思えない。
 批評と作者(批評の対象者)とは、そういういい加減なものである。実感であろうがなかろうが、ほめられればほめられたひとは喜ぶ。そして、そこから奇妙な癒着がはじまる。ほめられたひとは、ほめたひとに気を配り、親密になる。次は、ほめられたひとがほめたひとを支えるということがはじまる。もたれあい、にわゆる「日本的政治」がはじまる。
 この「政治」のために有効なのが、いわゆる「内輪ことば」であり、それは他人を排除することばでもある。その特徴は、絶対に「具体的」には語らないということである。「内輪ことば」の「意味」を知らない人は、口を挟んではいけない。それが高じて「政治のことを知らないひとが政治に口を出すな」という批判にもなれば、「私の父は政治家だから、私は政治を知っている」というとんでもない主張にもなる。脱線するが、更迭させられた江藤、かわりに農相に就任する小泉も、その類だ。

 「専門用語」には、気をつけよう。それをつかうひとは、ほんとうのことを言っていない、と受け止めた方がいい。