池澤夏樹のカヴァフィス(54) | 詩はどこにあるか

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54 マグネシアの戦い


良いことが一つ最後まで残る、記憶は失せないのだ。
母なるマグネシアが廃塵に帰した時、シリア人が

どれだけ嘆いてくれたか、どんな悲しみを味わったか--
さあ、食事をはじめよう、奴隷よ、管弦よ、照明よ。


 「記憶は失せない」は「私は思い出せる」と読み直したい。
 カヴァフィスは歴史を題材に書くが、それは歴史が失せないからではなく、自分のこととして思い出せるということだろう。カヴァフィスは、たとえばマグネシアの戦いを生きたわけではないから、それをそのまま思い出すわけではない。
 何もかもが破壊され、失われた時、ある人が「どれだけ嘆いてくれたか」、そして自分は「どんな悲しみを味わったか」。
 池澤の訳では「悲しみを味わった」ひとがシリア人ということになるのだろうけれど、私は自分(カヴァフィス)と誤読する。そうすると、そこに「対話」があり、自分の声がそのまま「さあ、食事をはじめよう、奴隷よ、管弦よ、照明よ。」へとつながっていく。思い出しながら、自分を奮い立たせている。
 この最後の行も、「意味」としては「食事をはじめるから、奴隷よ食事をもってこい、音楽をかきならせ、明かりをつけろ」ということなのだが、私には「音楽よ鳴り響け、明かりよもっと輝け」と聞こえる。音楽も照明も、「自動詞」として、自分自身を奮い立たせよ、自分たちの栄光の瞬間の「思い出」を思い出せ、と言っているように聞こえる。( 「食事」ということばが、この場合、豪華さに欠けると思うが。)
 動詞を書かず、名詞だけを書いているので、そんな気持ちになる。

 池澤の註釈。


カヴァフィスは人にせよ国にせよ勢力の頂点にあるところを描くのを好まない。彼が扱うのは常にその後の凋落期の姿であり、そこではじめて見られる生地こそが詩材となる。


 「生地」か。いいことばだなあ。カヴァフィスは歴史を借りて、彼自身の「生地」を出している。
 きのう書いたことに強引に結びつければ、つかいこまれた「生地」の美しさががカヴァフィスの魅力だ。真新しい生地ではない。つかいこまれて、生き残る生地の強さとしての、ことば。音楽。






 


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