いまから二年半くらいまえ、住んでいた家の更新をする金がなくて、たまたまスカイプで話した友達の家にころがりこんだ。その友達は年下の女の家に入り浸りでほとんど自分のマンションに帰らず、実質的に同棲状態だったので、彼のマンションは荷物だけがある無人状態だったのだ。渡りに舟と思い家電などを一切処分してその家に荷物を入れ、入りきらなかった荷物は当時一軒家を借りてシェアしていた友達の家の空き部屋に運び込んだ。決して広くないワンルームマンションは男二人分の荷物でいっぱいになり、ベッドとパソコンの周りしか居住空間はなかったけど、屋根があって水と電気とガスがある家に住めるだけで幸福だと思った。
しかしそれでも僕はあいかわらずぶらぶらしてろくに働かず、何だかよくわからないことばかりしていた。金はないしバンドをやる友達はいないしで、家にいるのがいたたまれなくて、頭が混乱すると必ず公園に行ってぼんやりした。
ある日、たまにはと思って太鼓を持って井の頭公園へ行くと、外国人の一段がアコースティックギターやマンドリンで楽しそうに演奏しているのが目についた。なんだか気になって眺めていると、そのうちの一人と目が合って、彼はニヤっと笑って、一緒にやろう、といったようなことを僕に向かって言った。ような気がする。
それからしばらく経って、彼らとあちこちで演奏するようになった。何の目的もなく、ただ酒を飲みながら演奏して週末を過ごすというリズムに僕も加わり、人に会いたいときはビールを持って公園へ行った。彼らの連絡先などは知らなかったので、行ってはみたものの誰もおらずとぼとぼと帰る日もあった。暑い日も、寒い日もあった。誰かに会わないとだめになってしまいそうなときもあったけど、そういうとき彼らといっしょに馬鹿話をしながら演奏して救われたことが何度もあった。
そんな流れで始まったバンドが、何年か経って誰かの役に立ったり、誰かを喜ばせることができるなんて思わなかったけど、最近はやっててよかったなと思えることがたびたびあってうれしい。どこでやっても、心は青空の下にある。
こんなに長いこと風邪をこじらせて苦しんだことはなかったけど何とか回復しつつある昨日や今日。ちょうど仕事もないので家でうどんやコアラのマーチを食いながら養生してます。
頭ぼんやりだけどすることもないので思い出したことを綴っていこうかな。

いまから7,8年前、地方の私立大学でまんじりともしない日々を送っていたころ、毎日地酒をのんだりドラムを叩いたりしていた。一応いわゆるジャズ研というところに所属してスタンダードをやったりしていたんだけどだんだんとそれもつまらなくなり、後半はエレクトリックマイルスの一発モノを誰もいない教室でやったりしていた。まあそんなことはさておき、今回はゆるゆるなサークルの中でもとりわけ頭のゆるかったKという男のことについて書いてみたい。Kは僕より二つ後輩で、ベースを弾いていた。弾いていたといっても大学に入るまで楽器など何もさわったことのないまったくの門外漢で、弦をおさえて指ではじくということすらままならない状態でいきなりジャズを弾こうとしているチャレンジャーだった。ただ黒人音楽に関する知識はそれなりにあって、スタンダードや名演名曲も押さえつつ、おもしろい聞き方をしているやつだった。まったく弾けないものだから最初はひたすら一人でジャズブルースを練習させられていたが、いつまでたってもものにならず、教室の隅でボンボンやっているだけだったが、Kはいつも楽しそうに楽器と戯れていた。ちょっとオツムが足りないというか、話の通じにくい奴で、同級生からはなんとなく面倒くさがられていたが、おれはKのことがなんとなく好もしく、楽しく話ができた。あるとき、もうKも入って数ヶ月になるんだし、みんなとセッションさせてみよう、ということになって、僕とギターと三人で適当な曲をやってみることになった。相変わらず音楽以前の演奏だったけど、Kはとても楽しそうだった。少し上手に弾こうとかテクニックを見せ付けてやろうとか、そういう気は一切なく、ただバンドの音の中にいることを喜んでいるような風情だった。ぼくはその頃高校時代の先輩と東京や京都でインプロのライブをやったりしていたが自分のやりたい音楽もなく、ただ無為に毎日ジャズをやってそれなりに悶々としていた。そんな中でKの天真爛漫さは僕をはげましたのだった。
そんなこんなで月日は流れ、僕も卒業するころになるとKもいっぱしに曲をこなせるようになっていた。もっとも我流なのでかなり怪しい演奏ではあったけど、下手ながらねばっこいフィーリングのあるいい演奏をしていたように思う。それから二年ほどたって、Kとももう演奏することはないのかなあなどと感慨にふけっていたら、友達の結婚式でまたKと再会することになり、セッションでいっしょに演奏できるかもしれないということになってうれしかった。
しかし卒業後、Kは職場でのイジメや営業上のプレッシャーから心を病んで、実家でしずかに暮らしているという話を聞いた。車のディーラーに勤務したKは物覚えが悪いだの愛想が悪いだのと上司から難癖をつけられ、誰にも相談できず病院通いを始め、時おり薬を飲み忘れるとてんかんを起こしてぶっ倒れるような体になってしまっていた。
人からきいた話だが、その友人の結婚式でKと僕が再会した次の日(ぼくは二次会まで出てとんぼ返りだった)、ほかの仲間たちとホテルで食事をとっているとき、Kはとつぜん食卓の椅子から転げ落ち、喉やら胸をおさえてのたうちながら「死にたくない 死にたくない」と涙を流しながらうめいたのだという。久々の面々との再会がうれしうかったのか、その日Kは薬を飲み忘れていたのだ。その場は仲間たちが救急車を呼びそう遠くないKの実家から両親を呼び寄せ事なきを得たが、僕はのちにその話をきいたとき、生まれてはじめてといってもいいくらいの激しい怒りをおぼえた。Kをそんな風にしてしまった奴を殺してやりたいとさえ思った。人間をそこまで追い詰めて、自分は便利に暮らしている奴がいるなんて、どう考えても納得できなかった。馬鹿で愛嬌がなくて、世渡りがヘタクソでも、おれはKのことがすきだったし、絶対幸せに暮らしてほしいと思っていた。そんなくだらないことで、そんなおめでたいときに、彼が床を這いまわって苦しまなければならない理由なんて何一つなかったはずだ。

その後Kは地元に戻って新しい生活を始め、今はおちついて暮らしているらしい。いまでも楽器とたわむれるようにしてわらっているKの顔が思い浮かぶことがある。ちょっとうまく書けない。
そのうちまた会いたい。
ここ半月くらいいろいろなことが立て続けに起こってついていけなかったのか、風邪を長引かせてしまった。大阪の有名なチンドン屋さんに会ったり、ブルースやインプロのライブをやったりケビンのバンドでぶっつけ3ステージやったりいろいろ。体調はわるかったけど頭の感度がよくいろいろな新しい発見があってたのしかった。
楽しいライブとか、たくさんの人に見てもらいたかったと思えるライブというのは一年にいくつもないけど、最近はいいかんじだった。メンバーとか内容とかっていうより自分の気の持ちようによってどうにでもなることなんだけど。
僕にとって音楽は言語だ。縁もゆかりもない人と仲良くなるための道具。たまたま道具が笑ったり泣いたりするだけだ。

とりあえず風邪なおそう
自分でもわからない意識の深いところで物事がつながっていることがある。とくに色や匂いや音のようなものは言語化して自覚できない分漠然と脳裏にこびりつく。社会生活を営んでいるまっとうな考えでは理解しかねるようなものに惹かれてしまったり、おそれたるするのはそのためであることが多い。
こんなことを考えているのはちんどん屋をやりたがった理由についてうまく答えられなかったからだ。3歳まで過ごした富岡町は福島原発から数キロのところにある。海沿いの田舎街で、桜並木くらいしか見るべきものはない。そのあと引っ越して二十代まですごしたいわき市も同様の田舎で、東京や大阪とちがってちんどん屋などいるはずもない。
ちんどん屋、という言葉を知ったきっかけはおそらく小学生の頃読んでいた江戸川乱歩の少年探偵シリーズだ。ほの暗い闇の向こうから白塗りの男がやってくるというような、ちょっと不気味で、観てはいけないようなもののように記憶していた。月日がすぎて東京に出てくると、大久保に住んでいた時分、高田馬場駅のあたりでよく三人組のチンドン屋を見かけた。高架下で彼らを見つけると、気分が高揚して子供のようにそのあとをついていったりした。しかし実際の東京の風景の中で見るチンドン屋はさほど風変わりでもなく、楽音は電車の轟音にかきけされ、子供心にあったようなどぎつい印象はまるでなかった。

おもうに、僕をそのように仕向けていった意識は、こういった実際のチンドン屋との接触によるものではない。よくよく記憶をほじくりかえすと、この原因は、小さい頃よく目にしたいわき市の郷土芸能じゃんがら念仏踊りの音、その記憶によるものなのではないかとおもえてくる。
じゃんがら念仏踊り(以下じゃんがら)とは、古くは泡斉踊りなどとも呼ばれ、北茨城の僧が伝えたとする説、いわき市四ツ倉出身の祐天という僧が地元住民の信仰心をあおるため歌に念仏をのせ踊りをまじえて説法をした、とする説などそのルーツについては諸説あり、エイサーとの類似性も指摘されている。
両面太鼓をかついた者が三人ほど、摺り鉦を持った者が5、6人ほどでフォーメーションを組み、新盆の家々を角付けするようにして回る。仏様に奉納する儀式というわけだ。
行う場はもちろん野外で、民家の庭に入り込み、太鼓を鉦が囲むようにして並ぶ。地域によっては横笛を入れたり提灯持ちが御詠歌を唱えることもある。
ふるまわれるビールで顔を真っ赤にした男たちが中腰になったり伸び上がったり、重心の低い姿勢でヤーレヤーレと掛け声をかけながら踊り叩きまくる姿は、今でもありありと思い浮かべることができる。派手な浴衣をくずして着、白いたすきをかけ、鉢巻の端をピンと立て手甲脚半をつけるのがスタイルだが、決して品のいい踊りではない。やけくそのように声をはりあげ、草履と白足袋を土だらけにして、腕を振り回す。しかし統率のとれた動きで、田園風景一面に鉦と太鼓の音だけがある。
何軒もの家々をまわった男たちの顔は日焼けと酒でむくれあがっている。暮れはじめた真夏の西の空に、蝉の声がじんじんと鳴り渡ってうるさい。じゃんがら来たぞ、といって近くの子供たちが集まって来、塀から覗き込むようにして庭を凝視している。そして、どどどん、ジャンガジャンガ、といってはじまると、辺りの空気がとまり、太鼓と鉦の音が体をゆらす。けたたましい鉦の音はとぐろを巻いて空に舞い上がり、太鼓の音は田んぼの土に染み入るようにしてどこまでも広ってゆく。男たちの太い声が鳴り渡ると黄泉と常世の扉がひらいて、世界は立体をこえて無限に膨張する。
大げさだが、大人になってじゃんがらを改めて観たときの感想はそのようなものだった。どっと涙があふれてはずかしいくらいだった。観客も演者もいない、木や土くれのような音楽。それは気の遠くなるような遠い昔と未来に鳴り響いて、ぼくの体をさーっとつきぬけて、空に消えてしまった。
今になって思えば、このときの鉦と太鼓の音と野外のイメージが現実的な欲求となってぼくをチンドン屋に惹きつけたのではないかと思う。じゃんがらについては書いておきたいことが山ほどあるし、読まなければならない文献もたくさんある。単なる郷土芸能としてではなく、音楽として、あるいは東北一円にひろがる呪術の一形式として。

もし盆の季節いわきに訪れることがあれば、どこかからどどどんという低い太鼓の音が聞こえてくるはずだ。そのときは用事や外出の目的など忘れて、音のするほうへ駆け寄って行ってほしい。
こないだ東京の国分寺で、「福島 六ヶ所からの伝言」という映画のプレイベントと上映会の余興で演奏した。チンドン屋のアコーディオンみほさんと二人でやっているんだけど、チンドン太鼓をたたいたり好きに歌ったりして、まったく今までやったことのないスタイルでおもしろい。映画少し観たけど、正直きつかった。映画の出来がどうこうというのではなくて、リアルな人間の悲惨をスクリーンで見せ付けられるのは本当にきつい。幸か不幸か、ふだんからあまりテレビを観ないので震災後の衝撃映像連発のテレビニュースにショックを受けることも少なかったが、二年経って、しずかに、現地の最悪な状況をみせつけられた感じがした。当事者でも非当事者でもない僕にとって、自分の態度を決めかねるという状態が二年間つづいている。言いたいことは山ほどあるけど、俺が言っても嘘っぽいし、言ってる自分もけっこうきつい。いろんな言葉が保留の状態で心の中にわだかまっている。
あれからというものことあるごとに『故郷の訛り懐かし停車場の人ごみの中にそを聞きに行く』という啄木の歌を思い出す。しみったれで趣味はよくない歌だけど、ことあるごとにきこえる被災者の声をきくごとに、あれほど憎んで、燃やし尽くしてしまいたいとおもっていたいわきの匂いがよみがえってくる。学校帰りの寒々とした風景がどこまでも追いかけてくる。

暗い気持ちになっていても仕方ないので寝ましょう。おやすみ~