昭次さんの独占インタビューがYahoo!ニュースに連載されています。
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再結成ライブは昔にタイムスリップしたみたいだった――成田昭次が仲間たちと実現させた「男闘呼組」復活
11/28(月) 17:00 Yahoo!ニュース
今年7月、音楽番組で期間限定の復活を発表した男闘呼組(リードギター・成田昭次、ベース・高橋和也、サイドギター・岡本健一、キーボード・前田耕陽)。1993年に活動休止して以来、実に29年ぶりの再集結。ジャニーズ事務所が再結成を認めたことでも大きな話題を呼んだ。メンバーの成田に、復活に至るまでの経緯、活動休止の真相、そして“これから”について聞いた。(取材・文:上田恵子/撮影:吉場正和/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
「男闘呼組の再結成ってどう思う?」
始まりは、2019年に届いた岡本健一からのメールだった。
「その年の春に、男闘呼組が1988年に出演した映画『ロックよ、静かに流れよ』の公開30周年特別上映があり、トークイベントに出た健一が連絡してきてくれたんです。その際に『男闘呼組の再結成ってどう思う?』と聞かれたのが最初。まず再結成という言葉が出たことにビックリしました。僕は地元・名古屋に住んで10年がたっていて、他のメンバーともほとんど連絡を取っていなかった。芸能界どころか音楽からも離れていたため現実味がなく、健一の提案には『ちょっと難しいかな』と返信した記憶があります」
岡本とメールのやり取りが続くなか、同年7月にジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川氏が死去。9月に東京ドームで開催された氏のお別れ会で、2人は26年ぶりに再会する。
「すぐに彼が僕を見つけて『昭次―!』って来てくれて。会った瞬間、26年のブランクなんかなかったみたいに、『何してた?』って普通に話してました」
その年の11月、今度は前田耕陽が舞台の仕事で名古屋を訪れる。
「連絡をもらい、26年ぶりに会って食事をしました。すると翌月には、健一が仕事で名古屋に来た。『先月、耕陽とカラオケに行って、男闘呼組の曲を歌ったんだよ』と言ったら『俺も行きたい!』と。それで健一とも男闘呼組の曲でものすごく盛り上がって」
成田の歌を聴き、「全然まだいけるじゃん。声も変わってねえじゃん。男闘呼組やろうよ!」と喜んでいたという岡本。
「そこから一気に事が進み、健一、耕陽、(高橋)和也、僕のグループLINEができ、2020年の3月にスタジオに入ることが決まりました」
音を出した瞬間「あー、こうだったな」
岡本と高橋は東京、前田は大阪、成田は名古屋在住。リハーサルの場所は4人の間をとって、名古屋のスタジオに決まった。が、ちょうどその頃から新型コロナの感染状況が深刻になり、実際に集まれたのは8月になってからだった。当日、成田は緊張のあまり、待ち合わせの時間より1時間も早くスタジオに着いてしまったという。
「久しぶりに和也とも会って。音を出した瞬間に『あー、こうだったな』と、まるでマジックみたいに、一気に時間が戻ったんです。健一は相変わらず音がでかいなとか(笑)、そういうところも全然変わってなかった」
翌朝、再び集まった4人は、「せっかくだからジャニーさんのお墓参りに行こう」と前田の車に乗り込み、墓のある高野山へと向かう。車中でも3人は「もう一度、男闘呼組やろうよ、もったいないよ」と盛り上がった。
「音楽への情熱が消えたわけじゃない。でももう50歳を過ぎてるし、名古屋には10年かけて築いた居場所もある。何より僕は、事件を機に音楽業界とは縁を切った人間。『誘われたから音楽をやります』とは言えなかった」
音楽をやめることが自身の行為へのけじめだと考えていた
男闘呼組のデビューは1988年。『DAYBREAK』『TIME ZONE』などのヒット曲を連発し、1989年8月には、東京ドームで単独ライブ。音楽活動は順風満帆に見えたが、グループは1993年6月に活動を休止。4人は別々の道を歩む。
「91~92年、5枚目のアルバムを出す頃から、自身で曲を作ったり、レコーディングに別のミュージシャンを連れてきたりと、メンバーおのおのが新たな要素を入れるようになってきました。ケンカしたとか仲が悪くなったとかじゃなく、ソロ志向が強くなり、男闘呼組としての音楽的母体が不鮮明になっていた。あの頃は、それぞれが『どうしたらいいんだろうな』と考えていた気がします」
2009年、ソロ活動をしていた成田は、大麻取締法違反で逮捕・起訴される。執行猶予付き判決を受けたのち、地元・名古屋に帰郷。以降、音楽から距離を置き、ギターもやめた。
「音楽をやめることが、自身の行為へのけじめだと考えていました。僕のしたことは今でも消えたわけじゃなく、これからもずっと十字架を背負っていくべきことだと思っています」
もう一つ大きかったのが、ロカビリーやフィフティーズが好きだった1歳違いの兄の存在だ。
「名古屋に帰ったとき、僕は兄貴に殴られることを覚悟していました。ところが兄貴は、すごく優しく迎えてくれて……。『俺がギターを弾くから、おまえはベースを覚えろよ。いつか遊びでやってみようよ』とうれしいことも言ってくれていたんです。ところが、僕が戻ったひと月後に亡くなってしまった。兄貴は以前から病気を抱えていたのですが、僕には一切そういうそぶりを見せず気づけなかったんです。そのショックがあまりにも大きく、立ち直るのにひどく時間がかかりました。今でも、ふとしたときに悲しみがよみがえります」
料理の修業はしんどかったけれど音楽にも反映できた
もう音楽の世界には戻らないと決めていた。けれどもある日、岡本から「会わせたい人がいるから一度東京に来て」と言われ、1年ぶりに上京。そこで紹介されたのが、MISIAが所属する芸能事務所・リズメディアの社長、プロデューサーの谷川寛人だった。
「寛人くんに会ったのは20年の9月。初対面にもかかわらず、3人で10時間近く話しました。最終的に僕も『わかりました』と。僕は健一の熱意に、いい意味で負けたのかもしれません」
とはいえ、いきなり音楽一本で食べていくのは難しい。成田は上京し、リズメディアが経営する飲食店の厨房に立つことになった。料理経験はほとんどなく、ろくに包丁も使えない。でも、やると決めた以上、一から覚えるしかないと腹をくくった。
「寛人くんは、飲食店の仕事と音楽活動を僕に両立させるようにして、夢に向かって歩ませてくれようとしたんです。ただ、正直、料理の修業はかなりしんどくて。でも、そのおかげで料理も上達して、スタッフのまかないご飯を作ったり、自宅で母親に料理をふるまったりできるようになったし、好評でした。そういう苦労が身になって、良い楽曲を作れるようになりました」
初のステージは、2020年11月に行われたリトルブラックドレスのライブ。ゲストギタリストを務めた。
「健一も見にきてくれて、あれこれダメ出しをされました(笑)。その後もリトルブラックドレスのライブに出演させていただいて。すべてがリハビリになりましたね」
再結成は反響の大きさに驚いた
それでも男闘呼組の再結成には、大きな課題があった。グループ名の権利は、当然ジャニーズ事務所が所有している。しかも、現在ジャニーズ事務所に籍を置いているのは、エージェント契約の岡本だけなのだ。
それでも、ジャニーズ事務所は、岡本からメンバーの思いを聞き、グループ名の使用を許可した。まさに異例の判断だ。こうして男闘呼組は奇跡の再結成を果たしたのだった。
そして2022年7月16日、男闘呼組はTBSの音楽番組「音楽の日2022」で29年ぶりに復活。『TIME ZONE』『DAYBREAK』、そして成田昭次のソロ曲『パズル』を披露した。
「直前まで告知していなかったにもかかわらず、反響の大きさに驚きました。でも、番組での演奏もそこまでの長いリハビリがなかったら成立しなかった。段階を踏んだからこそ、なんとか形になったのだと思います」
10月には東京・有明の東京ガーデンシアターで、復活後初となるライブ『男闘呼組1988』を開催。
「会場を見渡したらものすごい景色で、昔にタイムスリップしたみたいでした。何より30年近く、あんなにもたくさんの人が待っていてくれたことを知って……そこに一番グッときましたね。……今も思い出すと泣けてきます。ありがたくて、うれしくて、僕以外の3人も誇りに感じていたと思います」
ジャニーズ時代の仲間や後輩の姿もあった。
「『音楽の日2022』の収録時には、中居(正広)くんが来てくれて。彼はいつもお花を贈ってくれたり、心配してメールをくれたり、本当に気配りの人なんです。(木村)拓哉くんも全然変わってなかったな」
「Youはギターだよ!」
自分は本当に人に恵まれている、と成田は言う。すべてのスタートとなった、ジャニー氏との出会いがそもそもそうだった。
「僕が少しギターを弾けると知ったジャニーさんが、『ギター弾けるならやったほうがいいよ! じゃあドラムとベースを探さないとね!』と動いてくれたんです。ベースをやるつもりでいたのですが、ジャニーさんが『Youはギターだよ!』って(笑)。練習スタジオに行き、そこで会ったのが当初はドラム担当だった和也でした。和也が中3で、僕が高1だったかな?」
それにしても、子どもの興味や「やりたい」という気持ちを汲み取り、即座に形にするジャニー氏はすごい。
「ジャニーさんは4人の長所も短所も把握したうえで、それぞれのキャラクターを最大限に生かせるバンド、男闘呼組を結成してくれた。タイプは違うけど、追求しだすととことんのめり込む4人。この4人を集めたジャニーさんは、本当に僕らのことをわかっていたんだと思います」
兄の形見のギター、仲本工事の形見のギター
今年、成田は寺岡呼人、青山英樹とともに、新バンド「成田商事」を結成。10月にミニアルバム『ボストンバッグ』をリリースした。
今日持参した美しいグレッチのギターは、亡き兄の形見なのだという。
「再び音楽をやるにあたり、力を貸してもらおうと思って。ずっと手入れだけはしていました。兄貴が乗り移っているのがわかるんですよ。今、喜んでるなって。音もめっちゃいいですしね。ライブでは、このギターと仲本工事さんから譲り受けたギブソンES-335をメインで使っています」
成田は、仲本が経営していた目黒の店で交友を深め、ギターについて語り合ってきた。
「手入れが良くて、すごく古いギターなんですけど、すごく愛情を込められてきたなっていうのがわかるんですね。仲本さん、だて眼鏡じゃないですか。その奥の目と同じで、本当に優しい方なんですよね。ギターを最初見せてくれたときも、すごく丁寧に教えてくれて、優しさに包まれてるような方でしたね」
振り返れば、怒涛の2年間だった。
「2年前は僕、まだ名古屋にいましたからね。当時の自分に『2年後、東京で音楽やってるよ』と言っても、絶対に信じないでしょう。それもこれも健一をはじめ、男闘呼組のメンバーが諦めずにいてくれたおかげ。3人はいつも前向きなんです。無理だと思うことでも、そこに1ミリでも可能性があるなら実現に向けてやってみる。見習わなくてはと思っています」
男闘呼組の活動は、来年8月までの期間限定。メンバーとは「トークもありつつのアコースティックライブができたらいいね」と話している。
「男闘呼組も成田商事も、うそ偽りなく、隠すことなく、全身全霊で音楽を表現していきたいと思っています。末永く、応援していただければありがたいです」