桂米朝が、米團治師匠以外で、一番たくさん稽古してもらったのが橘ノ円都❗️神戸で活躍し長生きした。




⚫︎桂米朝の本『私の履歴書』p92  先輩の稽古から。




🟡米團治師匠の没後、何人もの先輩にネタをつけてもらった。


その中で私が最も多く稽古をしてもらったのが、橘ノ円都師。


前述したように円都師には、米團治師匠が健在なうちから『けんげしゃ茶屋』と『口入屋』を習っていた。


その後、すべてが持ちネタになったわけではなかったが、『宿屋仇』『近江八景』『軒付け』『夏の医者』『てれすこ』『三枚起請』『胴乱の幸助』『桂ふたなり』など、十いくつかの噺を稽古してもらっている。


また、面と向かっての稽古以外にも、私の噺をラジオで聴いたときなどには、その後で適切なアドバイスをいただいたりもしている。


円都師は神戸の代々続いた大工の家の生まれだそうで、若い時から落語が好きで、

その頃盛んだった素人落語の仲間に入ったのが原因で勘当された。


そこで大阪へ出て、初代春団治の世話で、桂文団治に入門。

桂団寿を名乗ったものの、素人連では座長まで務めていたこともあって、

前座修行の辛さが辛抱できずに飛び出してしまい、

明治の終わりに神戸へ戻り、

橘ノ円一門に加わって、はじめ円歌、後に改めて円都になった。


その後も神戸を中心に活躍、


戦災で焼け出される前は、

遊郭のあった長田区の柳原に、

その後は、六甲道に住まいがあった。


昭和の初めにいったん現役を退いていたのだが、

松鶴に請われて復帰、


戦後は大看板が相次いで亡くなっていく中で、

一人矍鑠として高座を務めていた。


ネタ数が多く、長命であったから、

多くの後輩が何らかの形で恩恵を受けているといっていいだろう。


亡くなったのは昭和47年8月20日、享年90歳だった。