落語家列伝。初代桂春団治❶❗️『子は鎹』事件❗️名人の噺を、聞いてみろ、落語通の渡辺均よ



上方の落語家として、仰ぎ見る巨星、初代春団治‼️
彼を、富士正晴氏に、紹介してもらおう❣️

富士正晴著『20世紀を動かした人々8  桂春団治』から。



1930年(昭和5年)、春団治は、大阪市住吉区上住吉町に移転した。
街中から郊外へのこの移転が何のためかは知らない。住吉神社の御田の南横だそうである。

この11月には『子は鎹』事件があり、12月にはラジオ放送の件で、吉本興業より強制執行を受けている。

この2つの事件、ともに、少し異様な闘志めいたものがのぞいているような感じだ。

体を徐々にむしばんできているものがあり、何となく苛立っていたものがあるのではあるまいか。

年齢は、53歳である。
現在なら、60半ばぐらいの体調だろう。

『子は鎹』事件は、『名物男』の中に花月亭久里丸が、『名人春団治を聴く』という題で書いている。

吉本興業が春秋2回やる『落語講演長演会』で春団治がモタレでやったが、
それを京大の卒業論文に「滝亭鯉丈について」を書いた落語通の大阪毎日新聞学芸部副部長・渡辺均が大の春団治ぎらいで、
名人会の催しに出る資格のない下品な噺家だと酷評した。 

それを知った春団治がものすごく怒り💢、
その8日目に、その記者がまた来たことを知ると、
得意中の得意の「阿弥陀池」をやるのを急に変更して、人情噺「子は鎹」をしんみりとやった。

これには横を向いていた渡辺がついに引き入れられてしまい、
その翌晩の夕刊に「名人春団治を聴く」と激賞したというのである。

京都にいるトミとふみ子を思う情がこの話の裏からにじみ出ていて聞く者を打ったという。

渡辺均は、はじめ春団治を大変きらっていたが、小春団治などとつきあい出してから、何とか春団治を理解しようと努めるようになったそうである。

落語をメチャメチャにくずしたと言われるが、
師匠は本格落語でも名人なのだぞとでも言いたい久里丸の口振りや、

『名物男』の中で、
現在の春団治(3代目)が父(2代目)から、春団治の偉かったことを、
『大師匠は字でゆうたら、楷書をウンと稽古をしておいてから行書になって、それから最後の草書が自分一流のメチャクチャな筆法でやり通した人で、俺らは足元へも寄られへん』と聞いたと話しているそれや、

春団治の一門のものの、どうしてもこれだけは言いたいという所であろう。