3月11日の地震以降、イライラすることばかりで、改めて自身の人間性について修行が足りないことを再認識する日々である。しかしその原因はすべてと言っていいほど同じ根源だ。東京電力、政府、大手マスコミ、国民の総意、である。この4つがどうしても自身の価値観に合わない。関西出身者としておおいに、「なめとんか、おまえらっ!」と思わず啖呵を切ってしまいたくなるのである。
わたしは巷間言われる、非国民ではない(と思っている)。というのは、やはりオリンピックで金メダルを獲った選手が君が代に涙をこらえる映像を見てとても感動するし(そういうときの日の丸の国旗掲揚は感慨深いものがある)。だから自衛隊(本当は「日本軍」だときっちり憲法に明記すべきだと思うが)も認めるし、自衛権も認める立場だ。ただこういうことを言うと、現在の日本ではすぐに「お前は右翼だ」と言われる。そういって非難する人の何人が、右翼と左翼の語源を知っていることか。しかもこれは元々欧州の議会で言われ始めた文言である。日本に純然たる右翼、左翼はいないのである。定義があいまいな状態で、よくぞ批判が出来たものだと思うが。
閑話休題。冒頭述べた4つの憤怒の原因について書く。1つ目は「東京電力」。これは日本の官僚、お役所体質を体現している典型的な例である。プルトニウムの観測状況や汚染水の排水の手続き、やり方を見れば明らかだが、隠蔽体質が全開である。だからいまだにデマが出回るのである。包み隠さず、今手元にある情報を正直に出さんかいっ! 民間企業とはいえ、非常に公共性の強い会社なので、経営に失敗した場合、その責任の取り方もしっかりすべきである。そのために、リスクヘッジのために、経産省から天下りを受け入れているのではないのかな?
2つ目は「政府」。総理大臣、菅直人のスタンドプレーに寄るところが大きい。目立ちたがり屋、権力の亡者、コミュニスト、危機管理の素人、頑迷な恐妻家…彼の形容詞は枚挙に暇がない。明らかに、福島第一原発の終息が遅れているのは、菅のせいである面が多い。放水すべき時間帯にいらぬ視察をしたということから、岡田幹事長も野党、自民党の息がかかった企業の支援を受けないなど、何もかもが自分たちの権力維持、選挙対策を念頭に考えて対処したことばかりなのである。日本という国家を破壊するためにこうした施策を選択しているとしか考えられない。彼らこそ、非国民である。しかしそういった彼らに給料を払っているのは我々国民である。選挙で選んだのも我々国民である。言い訳はできない。最悪である。
3つ目は「大手マスコミ」。ジャーナリストの端くれとして声を大にして言いたいが、現在の“大手”マスコミは腑抜けである。現場の担当記者には何人か骨のある(というか“まともな”庶民感覚を持った)人材はかなりいるので、すべての大手マスコミが悪いとは言わない。しかし、大口スポンサー(つまり広告)の東京電力を持つ大手マスコミに東京電力を厳しく、辛辣に批判、追及することは不可能である。この辺りが繰り返しになるが、“腑抜け”なのである。記者クラブという会員制で新参者の参加を認めないサークルが取材して発信するニュースには基本的に(すべてとは言わない。正しい価値の高い素晴らしい報道も数多く存在する。しかし、中国・韓国の話題が特にひどい。全く公権力批判ができていない。どうでもいい、日本を破壊する行為につながる雪印やライブドアの場合は容赦がない。官僚連中が発信するニュースを鵜呑みにする悪い癖がある。それは官房機密費等で接待を受けて、“飼いならされている”からであるが)真実がない。
4つ目はわれらが国民の総意。特にいらだたしいのは、首都圏に蔓延する「自粛」「不謹慎」というアホらしい価値観である。いったい自粛して、経済活動を控えて、どうやったら東北地方の経済を下支えできるというのだろうか。ただ単に負の感情に流されているとしか思えない。理解の範疇を越えている。わたしは大阪を取材の拠点にしているが、たまに東京に行った時感じるのが、得体の知ない違和感である。知り合いの記者連中の感覚も同じだが、東京完結型の価値観が平気でまかり通っていることである。もっと日本という自身の住む国家について真面目に考えろっ! とどなりたくなる。あまりにも自身の目の前の話、つまりは仕事や趣味の話に終始し過ぎているきらいがある。東京電力にデモンストレーションすることもなく、腑抜けの菅内閣にシュプレヒコールを挙げることもなく…。
自身の肝、核は日本であり、人格は日本人である。ゆえに、現在歪んでいるわが国家を矯正したいと強く願うのである。いい加減に目を覚まさないか? 大人しくしているのが美徳だという矮小化した価値観に甘んじることはやめないか? 大袈裟なことを言っているのではない。まともな国際人になろうと言うのである。まっとうな国際人になること、つまりそれはまともな日本人たれということだ。それを意識するのが、今という時代である、と思うのだが…。