離れ離れになった方々の心が少しでも癒やされますよう、また多くの被災者の生活の再建がより進みますよう心より祈念いたします。

 亡くなられた方々多くの命に心よりお悔やみ申し上げます。

 

 遠からず起きるであろう大きな震災に、311の反省が最大限に活かされますように。

 

 

 

 大変多くの議論が当時も今も行われています。それは震災が発生した後の誰しもが抱いた後悔が別の形になって現れたものともいえるでしょう。

 

 沿岸部の各地域では判断が文字通りの命の分かれ目ともなり、また十二分に震災対策を行っていた地域とでは明暗が分かれるような様相もありました。
 政治においては次第に国政の政権争いの材料にされていく様子も見え、混乱が起きている時に私達は多くのものを見通しながら公平公正な合意を行うことが困難であるとも明らかになったことと思います。

 

 震災対策で重要なのは

 

 ・「個人と身の回り」の範囲で行えることを本日のような機会に行っておく

 

 ・政治に関しては政党やイデオロギーの論争に踏み入らず、私達の間で行われる公論の中で確実なものを積み重ねていく

 

 この2点であると皆様に提起します。

 

 

 「予防は治療に勝る」ということわざがあります。

 事が起きた後に議論は高まりますが、確実なのは予防ができるのは次の震災が起きる前である現段階でしかないということです。

 

 そこで個人のできる対策を行わず、震災対応をネタにして政党やイデオロギーの論争に費やすことほど愚かなことは無いでしょう。

 

 亡くなられた方々に哀悼の意を表しますと共に、

 私達皆が理性的な判断を行えるようにと心より祈念いたします。

 

 

令和3年3月11日

高橋しょうご

ご覧頂きありがとうございます。

以下のキャンペーンに賛同をお願いします!「東京女子医大病院: 東京女子医大病院の「コロナ休業時の無給」文書の撤回と、職員待遇健全化の約束(宣言)を求めます。」(←署名サイトへのリンクになっています)

 署名の主旨と提出先や文面等を説明いたします。

 

署名の目的

 先日のニュースでご存知の方も多いかと思います。

 このコロナ禍において、東京女子医大附属病院内で現場の大変な作業にあたっている職員に対し、人事課より「コロナ感染時の無給」を示す内容の文書が配布されました。
 その文書の撤回と待遇健全化の約束(宣言)を求め要望書に添える署名に、皆さん是非お力をお貸し下さい。

指摘する問題点

 大きく分けて二点の指摘です。端的に解説していきたいと思います。

 まずひとつ目ですが、感染により(あるいは指示を受けた時)休業となった場合における無給の条件が文書で示されたのですが、その内容は感染した場合のその条件が経営側が感染の原因を定めて無給を決定できてしまうものと受け取らざるを得ないものであるという点です。

 これは、様々な業種の中でも殊更に感染しないよう気を配らなければならない医療現場、その最前線の従事者に対し、必要以上の限度を超えた重圧を与えるものとなってしまいかねないものです。

 私は以前より医療現場の内情について調べているのですが、コロナに関しては、職員が感染し病院が閉鎖ともなれば病院運営のみならず地域医療の責任や世間からのバッシング等の重い問題を引き起こしかねない現状です。
 その大変な重圧を、非常に多くの医療従事者の方々が抱えている上に更に過剰なストレスが掛けられてしまっているわけです。
 それは事故の原因にもなりかねないと、医療以外の分野に従事する多くの方も想像に難くないことといえるでしょう。


 ふたつ目は、感染し現場に出られなくなった時の主な想定が、補償ではなく無給とされた部分です。

 病院の外から推察するばかりの一般市民の目線からしても、最前線でこの苦境を乗り越えようと努力し続ける、療従事者の方々が、手厚い保障ではなく無給という脅しとも取れてしまう文章が示されてしまったのは、世間の声として挙げざるを得ないものを感じたためです。

 また、例えば感染を防ぐために飲み会などを避けよという指示が出ているとしても、その指示に完璧に従うことができなかった場合に即それが原因で感染したことにもなりません。

 無給を示された現場の方々の思いはいかばかりかと思います。

この提言、署名の意味するもの

 コロナ禍に関していえば、様々な分野の現場で理不尽なことが起きているのは多々見聞きするものです。

 それは一方で経営のためまたは政治のためといった、私達の基礎的な生活をし仕事をし支え合っているという根本ともいえる部分がないがしろにされてしまっていることから起きている場合が多いと、感じておられる方は多いのではないでしょうか。

 これは東京女子医大病院のみならず、他の医療機関や業種、さらには行政の対応にも及ぶ提言となっています。
 こうした声、視点が少なからざる私達のものだと証明する時だと思います。

 もしこれがきちんと成功を収めたなら、問題を指摘されて一方が折れるという善悪の証明といったものではなく、経営と現場という視点に隔たりが起きざるを得ないところに協力や配慮がいかに大切かということを示すことにもつながります。

 政治に対しては、民間がこうした態度を取っているのになぜ視野の狭いふるまいをしているのかという指摘ですとか、民間の中での協力を後押しするような促しにもつながることです。

 何より、この署名と提起が盛り上がることが、そこにつながる大事な一歩であることはご覧の皆さんにしっかりお分かり頂けたことと思います。


 是非皆さん、ご賛同、お力添えをお願い致します。

 現場で働く多くの職員の方の安心につながるのみならず、私達が立場を超えて協力を行えるものというはっきりとした証明になります。

 「善か悪か」という二者択一の世論を好む現代の風潮ですが、多くはそうした乱雑なあるいは深みや配慮のない価値基準に、口を挟むのを控えている賢明な方々がほとんどであるというのが本当のところと思いますし、残念ながらそれが証明されにくいものであるとも深く思うところです。

 きっとある程度の広がりを過ぎたら、そこから良い形でのさらなる展開が見込めるものと考えています。

 署名ページ下部にありますコメント欄にも是非お気軽に一言お寄せください。

 また改善点やご意見等ありましたら、コメントあるいはこっそりTwitterのDMなどでお伝え頂けましたら幸いです。
 (バランスや多くの方が扱いやすいよう複雑化を避けるため、必ず全て拝読しますがご意見そのまま全てを絶対に反映させるというものではないことを予めご了承ください)

 

東京女子医大病院 人事課ご担当者様にお伝えする文面

以下のキャンペーンに賛同をお願いします!「東京女子医大病院: 東京女子医大病院の「コロナ休業時の無給」文書の撤回と、職員待遇健全化の約束(宣言)を求めます。」 

 こちらが署名サイト及び要望として送る予定の文面です。
 文面を署名募集時に公表したのは、署名する皆さんが相手方に出すその文面に内容を把握の上で署名ができるようになっておくべきだろうと考えるからです。

 全ての人の同意を得ることは無理なことと分かっていますが、様々な事情がある東京女子医大病院の職員の皆さんを応援するという意味を署名をされた方々と共有できたらと思っています。
 ご理解とご賛同の署名をご検討頂けましたら幸いです。

 このご時世、本当に心から良い方向へと進むことを願います。
 

 東京女子医大病院 経営統括部人事課ご担当者様へ(文面)

 日頃の医療体制の維持と長きに及ぶコロナ禍の対応にまず深く感謝を申し上げます。

 この状況における病院経営の困難さはお察しするに余りあるもので、そこへお願いをするのは大変恐れ多いのですが、これは勇気を振り絞ってのものとご理解頂けましたら幸いです。


東京女子医大病院の経営統括部人事課より発信された
「コロナ休業時の無給」文書の撤回と職員待遇健全化の約束(宣言)をお願いします。

 医療現場における職員皆さんの姿を多少なりとも目にすることがあるのですが、その姿と「コロナ罹患時の休業時における無給」の文書の存在の両方を思い比べるところとなりました。

 そして、歴史的規模ともいえるこの感染症の、その最前線で立つその当事者の心中を思うと筆を執らずにいられない結論に至った次第です。

 僭越ながらその内容について以下に述べたいと思います。

無給の条件について
 昨日の報道で目にしました「新型コロナウイルス感染症に罹患(りかん)等して休業する場合の処遇について」ですが、まず申し上げざるを得ない点のひとつめが、休業中の給与を無給にするその条件についてです。

 病院より出される条件ですので、それが感染を防ぐものとして適切であるのは異論の余地はないものと思います。

 ただ、それはあくまでも感染を防ぐ方法を意味するものであり、感染経路を特定するものでないのは明らかです。

 職員の皆さんが背負うものは、職場の大変さのみならず職場を離れた生活の面でも自らが感染者とならないようにしなければならないとてつもない重圧と存じています。これは個人的に日本各地の医療従事者やその関係者の声から実感するもので、おそらく第三者が確認をし大きな間違いはないように思われます。
 現場を止めてはならないという医療従事者の心がけと重圧は、語弊があるかもしれませんがそれ以外の立場の比ではないでしょう。

 その中でも職員の皆さん一人ひとりには生活そして家庭や家族もあり、やむにやまれぬ場に赴くのもあり得ることです。
 それが偶然ほんの少しでも条件に抵触する事があれば、誰よりも感染する可能性のある医療従事者が無給にされてしまうという文面は言葉を失う衝撃があります。

 その余計ともいうべき重圧を与えかねない部分は、職員の方々への多くの人々の同情を誘うものとなるもので、責任者の方もそれは望まぬところかと思います。
 また、所属されている職員の皆さんも、患者より「職場でこのように決めつけられて困っている」という相談を受けたなら「防止策は感染源を特定するものではない」と答えるのではないでしょうか。

 「感染」というテーマに向き合い重く責任があるのは誰も疑うものではありませんが、この条件が明確に分けられなかった部分は複数の問題を引き起こしかねないものと思います。

休業中の補償について
 現場の方々に少しでも安心して勤められるようになって頂きたいのが何よりの願いなのですが、感染時のみならず休業の指示がなされた場合でも無給の場合があるという点がふたつめの部分です。

 そもそも医療従事者の方々こそ、感染発覚時の補償がしっかりとかつ明確に示されているべきではというのが、日頃からお世話になっている一市民として抱いた率直な感想です。

 雇用調整助成金や傷病手当など医療法人も使用できる補償制度もあります(ここは知らない部分もありましたら申し訳ありません)。
 一般的にも、公的な補償制度と雇用条件に盛り込まれている制度を十二分に活用したガイドラインを設けるなど、職員に向けた最大限の努力がなされるべき状況ではないでしょうか。

このお願いについて
 これは貴院の経営側を悪とする提起では絶対にありません。
 病院経営とは医師の育成と医療体制の充実と合わせ、国の施策である地域医療構想に沿う必要があるばかりではなく、経済情勢や保険制度改革の見通しや災害対策など、重い使命を複合的に果たさなければならない大変困難なものです。

 その中で、政治や行政の的確な見通しのない動きや、大半は十分に努力をしているとはいえリテラシーの行き渡っていなかった不安を抱える市民、パニック発生の可能性にまで向き合わなければなりません。
 そうした中で、いわば「身内」に向けて意識を引き締めるために厳しい言葉を用いる場合もあり得ないものではないのでしょう。
 しかし、以上のような病院経営が向き合う不安とは、前線で活躍するスタッフが直面するものでもあるわけです。


 コロナ禍発生時の不安を抱く大勢の患者の対応から現在のコロナ対応体制の構築までの間にあった、物資不足の恐れやデマや医療従事者への偏見という困難に直面し続けてきたのは何よりも現場の職員ではないですか。

 では、そこで経営のためという目線でなされた「無給」の宣言ですが、この追い詰められた瀬戸際の一線で踏み止まり、医療体制を維持し続けている職員へのあの言葉が向けられたことが意味したものは、医療を支えながら生活を営む上での医療従事者と労働者その両面の意志の立脚点すら損ないかねない重大なものであったと言わざるを得ません。
 それは病院周辺住民の無意識的な不安を招き、職員の過大かつ余計といえるストレスは医療事故すら増やしかねず、大量の職員の退職の引き金にまでなってしまいかねないでしょう。

 それを職員の皆さんが必死で防いでいるのは多くの日本中の人々が重々承知のことです。


 どうか、東京女子医大病院の経営統括部人事課の責任ある方にお願いいたします。

 無給を示したあの文書の撤回および、職員に寄り添いコロナ禍をその現場と生活を守りながら乗り越えるのを目標とする宣言を行って頂けないでしょうか。

 無給の可能性を示唆する文書はそもそも現場から離れることを促しかねませんが、撤回と健全さのある体制を(せめてほんの少しだけでも)取るのは、病院内外への貴院が発信する、防疫的あるいは社会的なアナウンスの信頼を勝ち取るものです。そして、その信頼は保険制度や人口動静を踏まえる長い目で見た際に、経営の安定をもたらすものと具申するものです。

 現在、社会における政治や情報の面でも多くの不安を多くの人々は感じているものです。それは日本の大都市圏に起きている、医療従事者の置かれている苦境や医療現場の逼迫する余力への危惧、そして行政対応への不信が、少なからず言葉にならないものとして現れたのだといえるでしょう。

 その根本原因への向き合いを意味する、全国的にも画期的といえる方向へのさきがけとなって頂けないでしょうか。

 世間は何が悪かあるいは善かというような二者択一を求めるような世論が溢れやすいものです。

 しかし医療はそうした意志を持つ人そのものを支え寄り添うという私達のものでもあるわけです。今なお生まれてくる子供達を支えているという、その根本的な説得力を持つのが医療への従事であり東京女子医大病院であると、改めてのご認識を心よりお願いいたします。

 どうか今回を機に、大きくさらなる飛躍の方向へと向かって頂きたいと心より願います。

 これは東京女子医大でとりあげられた子供達が物心付いた時に、諸手を挙げて賛成してくれる内容であると信じ、恐れながらも提起するものです。

 日常的にも様々な場面で人々を左右している「フェミニズム」ですが、皆さんはその大元の意味をご存知でしょうか。
 日本は敗戦後、戦前にあった参政権運動など人権運動の動きは、顧みられる事が非常に少なくなりました。代わりに影響を持ち始めたのが学術的な解釈の「フェミニズム」です。ここには大元の人権運動やその理念とは大いに異なる意味合いが含まれていました。


 この記事では、今日における「フェミニズム」の大きく分けてふたつになってしまった意味合いを整理すると共に、その更に奥にあるフェミニズムの大元となる考え方や重要な人物を紹介します。

 

 

 

◇フェミニズムの大元となる理念は人権

 まず、参政権は人権である事を意識していない方も多いというところがありますが、女性参政権運動と聞くと「フェミニズム」を思い出す方は多いと思います。
現代の人権の元となる考えは理神論から始まります。

それは西欧の王権神授説からなる階級社会の批判と、平等の個人の意思と理性を基礎とする国作りの理念につながるのですが、その理念が人権です

 

◇平等に個人に備わる理性という思想「啓蒙主義」

 国の基礎は市民と位置付けた啓蒙主義は西欧諸国を大きく変化させるほどの影響を及ぼしました。しかし啓蒙主義という言葉は、後に国家間の対立を煽り戦争を引き起こすものとも捉えられていきました。

それは「啓蒙」“Enlightenment”の言葉が、未開の地に知性をもたらすという植民地支配拡大の名目としても掲げられたからです。
 歯止めの効かない植民地拡大競争と大きな戦争の反省としてなのですが、ここに「個人に備わる人権や理性」と「国家規模の利益争いの思惑」との隔たりがあらわになります。

 

◇オーギュスト・コントの社会学

 そこでフランスで生まれたオーギュスト・コントという人物が社会学を創始します。(他にも関係する人物がいますが代表的な人物です)
彼の理神論と啓蒙主義思想の広がりに伴う革命(王や教会から市民に国家運営の権利が移る事)の暴動や混乱を目の当たりにしたことから、啓蒙主義の批判と社会の分析結果から社会運営の理論を構築するその理念と計画を提起しました。
そこから始まるのが社会学です。
そこで取られた手法とは、様々な学問分野の発見を社会の動きの観察に応用させ、その観察結果から社会運営に役立つ理論を構築するというものです。
 その理論の構築には弁証法という、当時の最新かつフランスで重視されていた伝統の路線に沿う数学と論理とを合わせた哲学の手法が用いられました。

 

 

◇弁証法とダーウィン「生物多様性の展開」の社会学的解釈

 社会学では社会が段階的に発展するという概念が用いられました。
その段階的な発達という概念に、ダーウィンの「生物が世代を経て環境などに合わせて変化する」という理論が応用されました。

 

そこで更に、性別が生き物の生態に根本的な影響を及ぼしているという理論が応用され、社会学上のジェンダーという概念が生み出されました。
 この社会学のジェンダー分野において、フェミニズムという単語が使われ始めます。


 

◇歴史、哲学、運動などの社会学的カテゴライズ

 啓蒙主義の批判と共に、社会や人の動きを現象のように捉えて生み出した考えを、弁証法を用いて性別を大前提に理論化するという流れが行われるようになりました。

 

社会に存在する様々な権力、哲学、社会運動、女性による芸術等、過去にあったものも含め様々なものが、このジェンダー概念に基づいて分類されていきました。
(「第○波フェミニズム」「フェミニスト哲学」など)


 その中で、理神論と啓蒙主義から始まる人権運動や女性参政権運動などは男並みの権利(あるいは権力や平等)を求めたものと位置付けられました。


 

◇フェミニズムの大元とその動き

 大元とは人権運動であり、それは理神論と啓蒙思想から始まる個の尊厳を基礎とした国家運営を求める運動です。
そこではフェミニズムやフェミニストという単語が先に来るものではありません。また、名乗らなければいけないというものでも一切ありませんでした。

 その人権運動では様々な提起や活動が行われていました。共通して見られる要素としては概ね以下の通りです。

 ・公平公正さを旨とする
 ・平和主義
 ・個人の理性の体現と、社会を構成する市民としてのあり方(徳目)の重視

 オランプ・ド・グージュの弁護の申し出、アメリカのクエーカー、メソジストなど様々な人々による奴隷解放や女性参政権への関わりメアリ・ウルストンクラフト、アメリカ独立に関わる人物への影響など、大変多くの分野に見られます。
 暴力性の否定とは、ウィーン体制(フランス革命の暴力的な革命運動の広がりを抑えたヨーロッパの国家間の取り組み)の最中に各国で発生した暴力革命運動の反省として、各国市民の間に生まれた暴力性を忌避する空気です。
 市民のあり方としては「徳目」 “Virtue” が国家を担う一人ひとりの重んじるべきものとして挙げられました。また貴族階級と異なる市民の労働の意義からは、労働者の権利や環境の整備の動きへとつながりました。

 このように複合的なものであったわけです。

 前述の通り、そうした動きを現代の「フェミニズム」においては「男並み」の平等を求めたと位置付けられる事が大半なのですが、同じ言葉で大きくふたつに分かれたこの意味合いは、様々な混乱や対立の原因ともなりました。

 

 

◇フェミニズムの大元 人権理念を更に辿る

 それは16世紀のヨーロッパにあり、その中には以下のような提言が見られます。

 ・女性の教育(性別に左右されない教育)の重要性
 ・女性の結婚の自由
 ・投票による統治者の決定(選挙)
 ・子供の権利
 ・表現、言論の自由
 ・現代の信教の自由に通じる発想
  など

人権運動で見られたような多様な社会的問題へ向き合う態度も見られるのですが、その重要な提起を行った代表的な人物がデジデリウス・エラスムスです。

 

 

◇デジデリウス・エラスムス

 当時ヨーロッパでは、諸国の王や貴族の領土や人々を支配する権力を、カソリック教会が神の代理として認める形で成り立っていました。これが王権神授説です。

 エラスムスはそのカソリック教会の神父であり聖書研究家です。彼の業績は現代の哲学や科学や文献学など様々なものに大きく関連します。
 当時、東ローマ帝国の滅亡による古い文献を携えた学者達のエラスムスの住む西側への避難がきっかけとなり、彼はその聖書や古代ギリシャ哲学の古い文献を調査する事となりました。

 

その調査の中で、解釈に重きを置く学者の説を教会が取り入れていた事が、教会と権力に大きな問題を生じさせているのを確認したのでした。

そこから彼は改革に取り組むことになるのですが、その過程で提起されていたのが上記の提言(その一部)です。
 そのやり方は改革を大上段に掲げるようなものではなく、問題の原因そのものに対し、人間性の尊重、文献の調査、適切な懐疑の態度などをもって取り組むものでした。


 そしてその理念は当時の王侯貴族や教会関係者そして庶民に広く受け入れられ、取り組みが成功するかのように思われましたが、ルターの国家間の利益争いと結びついた宗教改革運動によって達成には至りませんでした。

 

◇権力と結びついた宗教とその大きな弊害 理神論へ

 世界を創造した神が王に支配する権力を与えていると教会が保証する事が、当時の王が持つ支配権力の根拠とされました。

 

その「世界とは何か」という人として自然な探求に対する答えを、教会が聖書から見出さなくては「神の認めた権利の保証」という仕組みに疑いが生じてしまいます。
そのため教会は、科学や宗教そのものに対する新たな見解を異端として排除してきました。
これがヨーロッパにおける古代ギリシャからルネサンスまでの、科学や文化発展の非常に長い停滞を引き起こしてしまいました。

 エラスムスは古い文献から、人間本来に備わる性質を否定する学者達の解釈論を、根拠の提示とバランスを保った表現や人と神への敬意という態度をもって正していきました。否定され続けてきた人間の自由意志の存在も擁護もしています。
 しかし結果は16世紀当時に目に見える改革として成立するどころか、死後彼は教会から異端と見なされてしまうのですが、彼の伝えた理念や著述はおよそ200年後の理神論や人権などへと結びついていきます。

 

◇エラスムスから理神論、人権思想までの流れ

 理神論とは、神の存在を認めつつこの世界が理性による分析で解明を進める事が可能だとする考えです。
ニュートンがその発見と理念の両面で代表的な人物として挙げられます。科学的発見の重要性とその揺るぎない正確な証明が大きな説得力を持ったのと同時に、彼自身が神を認めつつ理性の力を証明した存在として、理神論の何よりの後押しとなりました。
 その科学的な発見はエラスムスと交流もあった人物による、当時は錬金術や魔術というくくりで捉えられていた探求が基礎となってニュートンの時代まで紡がれたものといえます。
エラスムスの影響は、女性の教育の重要性、魔女狩りへの批判、当時世界に広まりつつあった世界各地での現地人の奴隷化や虐待を批判する動き、国際法への影響など様々なものに及びます。
 その文脈がニュートンの友人でもあったジョン・ロックの各個が有する権利という個人が基礎となる国と市民との関連による国家運営の理論と合わせて、理神論と啓蒙主義の時代の方向性に大きく影響しました。
 ここから政治に関与する権利である参政権の、性別による不平等改善への取り組みが女性参政権運動となり、その中で「フェミニズム」は方針を表す標語として扱われだしたものだったのです。

 エラスムスは当時のヨーロッパに古代の優れた哲学と語学上の正確な扱い方を整理しその立ち位置から寛容と平和の精神を体現し、多くの人々に有形無形の重要な理念を伝えたという事ができます。

 

 

 

◇フェミニズム、人権運動、人間性の尊重という文脈

 15世紀のエラスムスの時代は文芸復興(14-16世紀)の間であり、そこではユマニスムという人間性の尊重と平和を重視する動きがありました。文芸復興の時代は「復活」“Rebirth”を意味する“Renaissance”(ルネサンス)と呼ばれています。

 時代規模でその関連性を見た場合は、エラスムスの死(1536)から理神論や啓蒙思想が高まるまではおよそ100年、そこからフランス人権宣言(1789)やアメリカ独立宣言(1776)などの人権思想に基づく革命や独立運動までおよそ150年、その後ウィーン体制を挟んで女性参政権運動が始まるまではおよそ60年という隔たりがあります。

 

 隔たりが起きるきっかけには権力者同士のいさかいや迫害や戦争などがありますが、その権力者に都合の良い解釈や考えが力を持つ時期でも、重要な理念は断絶する事なく議論され伝えられ続けていたものです。

 

 フェミニズムの大元となる人権運動その人権とは、人間性の重視と人間の理性を重んじる平和の希求が現在まで紡がれる道筋の延長線上にあるものだといえます。
 このフェミニズムの大元を辿る一連の流れと、同じ言葉で別の意味が生じている事を皆さんに確認して頂きたく思います。


 

◇おわりに

 ジェンダー概念などを前提とした「フェミニズム」こそ至上とする方々がいらっしゃるのは存じていますが、そうした方々へ無理にこれを理解せよというものでは絶対にありません。
ただ、フェミニズムに関心を持った若い方々に上記の背景を一切説明せず、それどころか「男並みの平等を求めるもの」であるとか、「フェミニズムは」「フェミニストなら」という言い回しで特定の条件付けをし続ける、専門家と称する方々には私は疑問を持たざるを得ません。

 例えばフェミニズムの代名詞のひとつともいえる「女に生まれるのでなく、女になりゆくのだ」というボーヴォワールの「第二の性」その第二巻冒頭の言葉ですが、これがエラスムスの教育論(仏語訳)からの引用です。
 

 

“On ne naît pas homme, on le devient“

「私たちは人に生まれたのではなく、人になりゆくのだ」

これをボーヴォワールは

“ On ne naît pas femme : on le devient”

「女は女に生まれたのではなく、女になりゆくのだ」と引用しました。


(多くの哲学者も参考また引用しており重要な文脈です カント サルトル

 他にもメアリ・ウルストンクラフトの提起にある様々な要素は、人権理念として国を超えて共有されていたものでもあり、それはエラスムスの提唱したものと繋がる文脈でもあります。
このように影響と文脈は文中のリンクからもわかるように確認が可能なものです。

 しかし、現在の日本においては、その重要な文脈と背景がフェミニズムに関心を持った方々へ伝えられているとはいえません。

それどころか、参政権運動などの人権運動や思想や人物などを「男並み」を求めた存在だと解釈し、その特定の概念に基づく解釈こそ正統であるかのような発信が広められているのが現状ではないでしょうか。
 

 

 

 誰それがどうという批判の話ではありません。

 理解ある方々との重要な情報の共有こそ大切なものです。
重要な情報やその文脈を私達の手で大切にしていきましょう。

 

 

(その他、参考資料 参考サイト