[やさしさという残酷] | 将棋コーディネーター八幡山 のブログ

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将棋をとおして子どもたちとともに成長していくブログです。

先日、以下の記事をネットで見つけました。日頃、自分が考えていたことと同じだったのでとっても嬉しかったです!!ブログに載せさせていただきます🙇‍♂

イチローも警鐘を鳴らした…「大人に叱ってもらえない」Z世代が直面する「やさしさという残酷」

 現役引退後、MLBシアトルマリナーズで選手の指導にあたっている元プロ野球選手・イチロー氏は近年、日本全国の高校野球部でスポット的に指導を行っていることが知られている。そのイチロー氏が先日、訪れた高校で以下のような発言をしたことが大きな話題になっていた。 〈「今の時代、指導する側が厳しくできなくなって。何年くらいなるかな。僕が初めて高校野球の指導にいったのが2020年の秋、智弁和歌山だね。このとき既に智弁の中谷監督もそんなこと言ってた。なかなか難しい、厳しくするのはと。でもめちゃくちゃ智弁は厳しいけど。これは酷なことなのよ。高校生たちに自分たちに厳しくして自分たちでうまくなれって、酷なことなんだけど、でも今そうなっちゃっているからね。(中略) でも自分たちで厳しくするしかないんですよ。ある時代まではね、遊んでいても勝手に監督・コーチが厳しいから全然できないやつがあるところまでは上がってこられた。やんなきゃしょうがなくなるからね。でも、今は全然できない子は上げてもらえないから。上がってこられなくなっちゃう。それ自分でやらなきゃ。なかなかこれは大変」と様変わりした現代では、選手がより自身を律することが求められる過酷さを指摘した〉(2023年11月6日、スポニチアネックス【イチロー氏 「指導する側が厳しくできない」時代の流れ 「酷だけれど…自分たちで厳しくするしか」】より引用) ----------  時代の移り変わりによって、旧来行われていたような「厳しい指導」がされなくなったことについて、イチロー氏が「酷なこと」と、ともすれば世間の直感に反する表現をしていることはきわめて重要だ。私が知るかぎり、イチロー氏は各地の高校を訪れるたびほぼ毎回この話をしているように思う。相当の思い入れがあって――それこそ警鐘を鳴らすかのように――子どもたちにそのことを伝えたいのだろう。  スポーツをまるで「修行」のような心身修練の機会とするのではなく、あくまでひとつの娯楽やアクティビティとしてエンジョイすることを主眼に置く取り組みは、近年高く評価されている。甲子園ではまさにそのようなスタイルを貫いた慶應義塾高校が優勝を果たすなど、メンバーをさながら軍隊のごとく厳しくしごきあげる過酷な方法で構成されていた旧来的な指導法は、時代遅れの陋習として否定的に語られる向きが強まっている。  また近年では部活動でのハラスメントや体罰がしばしば問題になることも増えている。そうしたハラスメントや体罰の温床ともなっていた軍隊的な体育会系の指導を受けずに済むことは、時代感覚のアップデートであるようにも思えるし、子どもたちにとっては「いいこと」であるように感じる。  ……だが繰り返し強調するが、イチロー氏はこれに諸手を上げて賛同していない。あくまで「子どもたちにとっては酷なこと」と評しているのである。

剥き出しの「自己責任」の時代へ
 私もイチロー氏と同意見で、このような時代の流れは多くの若者にとって「酷なこと」だと考えている。
なぜならこれは一見すればやさしさをまとってはいるが、しかし同時に、若者たちに「剥き出しの自己責任」を課していることと表裏一体だからだ。
イチロー氏が述べるように、ある時代までは、自分で自分を厳しく律することができない人であっても、その人の近くにはきっと「厳しい大人(先輩)」がいて、その人の自堕落さや怠け癖をシバいてくれていた。だからこそ、自分を甘やかして易きに流れるような者でもどうにか脱落することなく、それなりのクオリティに仕上がることができていた。とくに若者は遊びたい盛りなのだから、自分でそうした欲望を厳しく律して生活するのは容易ではない。

だが現在は、甘えや怠けを容赦なく指弾する「厳しい大人」をやってくれるような人が若者の周囲にはいなくなってしまった。甲子園の常連で何名ものプロ選手を輩出する名門野球部でさえ、かつてのような「しごきあげ」ができなくなっているのだからよほどのことである。
それは若者側の視点からすれば、ひと昔前まで横行していた、時代遅れの「昭和」な香り漂う暴力的な規律や統制を受けなくて済むことにほかならず、社会生活や社会活動の快適性が高まっているとはいえる。しかしそれは「自分で自分を厳しくコントロールできない者は(だれからも指導されたり矯正されたりすることなく)そのまま放置される」ということのコインの裏表である。

「責任を負う人」がいない時代
 これは部活動にかぎった話ではなく、一般企業の教育・指導にも共通した問題だ。いまは上司や管理者が部下に厳しい指導をしようにも、ハラスメントとして告発されてしまうリスクが高いし、あるいは厳しい指導をしたせいで心が折れたり気持ちが萎えたりして辞められてしまうのは、人手不足の状況では死活問題になってしまいかねないため、うかつに踏み込めない。
なので教育者・指導者側も、まず「自分で自分を厳しく律することができる人」「厳しいフィードバックに耐えられるタフネスがありそうな人」を慎重に選んで注力するようになっている。そうでない人には、心が折れて辞められたりすることがないよう、腫れもの扱いしながら敬遠する。
結果的に、自分に厳しくできない人や、厳しいフィードバックに耐えられない人は、表面的には学校でも部活でも会社でもどこでもそれなりに「やさしく」遇されやすくなって快適な日々を送ることができるが、しかしタフな人びとに経験値や成長度で大きな差をつけられてしまうし、だれにもそれを埋め合わせてもらえない。格差が開いてしまったあとから「自分がこうなったのは、だれも厳しく教えてくれなかったせいだ」などと申し立てることなどもちろんできない。自分でちゃんとしなかったせいでしょ? とあっさり切り捨てられることもままある。
「厳しい大人」というのは、若者を「一定のラインまで引き上げる」ことを、責任をもって保証してくれる人でもあった。その指導やフィードバックが厳しくても辛くてもしんどくても、とりあえず信じてついていけば、ある程度の高みにまでは自分を運んでくれる、そういう指導責任を頼もしく引き受けてくれる人でもあったのだ。
いまの時代は、そういう「厳しい大人」という存在を、子どもたちにとって加害的であり、抑圧したり心の傷を負う原因となってしまうリスクがあるということで排除してきた。それによって、たしかに子ども時代に理不尽やトラウマを味わう機会がめっぽう減ったことは間違いないが、かつてそういう人たちによって保証されていた「高み」に上がって来れるかどうかは、完全に「自己責任」になってしまった。
自分で自分を厳しく管理して、「高み」にまで自分を押し上げられる若者はそう多くはない。結果として世の中は二極化が著しくなっている。「勝ち組」はライバルが減った分だけその取り分が大きくなったが、「負け組」になると――負け組になってしまったのは自分の自主性の結果なので――救済の論理はなく、あっさり「自己責任」として突き放される。
そもそも教える側にはメリットはほとんどないのに、教える相手の尊厳や心理的安全性まで慮ってまるで「お客様」のように遇しなければならないというのは、こう言ってはなんだがさすがに面倒くさい。そんなことに付き合ってくれる人はそれほど多くないだろう。多くの同僚や上司はそんな「配慮が必要な人」に対しては根気強くフィードバックなどせず、むしろ早々に見限ってしまう。
「大切なお客様」として接してくれないと拗ねてしまうような若者には、あえて成長を促す指導などするのは「コスパが悪い」ということで、心が折れない程度のコミュニケーションに留め、また本人にも過度なプレッシャーにならないくらいの(最悪いきなり心が折れたり音信不通になっても困らないくらい重要性が低い)仕事をあてがうくらいが合理的だと判断されるようになる。そうこうしているうちに、自分で自分を厳しく律して行動する人とのスキルや成果の格差はどんどん開いていくことになる。しかも「(自律的にやる人との)格差が開いてますよ」と教えてくれる人すらいない。

無責任だからやさしくなれる
「厳しい大人」がいなくなったいまの世の中では、しかし「やさしい大人」には事欠かない。  それは「直接の監督責任・指導責任を負わなくて済むからこそのやさしさ」であると心得なければならない。いうなれば無責任に由来するやさしさだ。  人間は相手になんら責任を取らなくてもよいときであれば、いくらでもやさしい言葉を並べるし、大した裏付けもなく楽観的観測を述べたりする。それで相手が変な方向にのぼせ上がってしまおうが、現状に満足して停滞してしまおうが、極言すれば「知ったことではない」からだ。  SNSでも「イヤなことから逃げたらいい」「つらいことは拒否すればいい」「めんどくさい他人は切ればいい」といったやさしい言説を発信する人ほど多くの支持や共感を集めているのを目にする。「しんどいけれど大切なこと」をSNSで言っても支持されないし、むしろ嫌われたり、「お前になにが分かる」と憎まれて石を投げられることさえよくある。そう考えれば、「無責任なやさしさ」を発信する方がよほどコスパはいい。  いまの世の中では「厳しい大人」は希少財だ。なぜなら、責任を負うからこその厳しさであるからだ(念のため言っておくが、ただ横暴に振る舞いたいだけの人を「厳しい大人」とは言わないし、区別も容易に可能だ)。  本当に残念なことだが、いまの若い人が「厳しい大人」に出会える確率は、ものすごい勢いで低下していると言わざるを得ない。出会えたとしたら本当にラッキーだ。それが人生を変える出会いになる可能性は大いにあるからだ。苦労も多いし、自分の自由な時間も減ってしまうかもしれないが、絶対にその人を手放すべきではない。

だれもが「一人二役」を求められる
繰り返しになるが、イチロー氏が述べるように、いまの時代は若い人にとって快適ではあるが、しかし同時に「酷な時代」だと思う。 世の中には、これまでの時代にはなかったような新しい仕事や創造的な仕事が増えたし、マクロな労働市場もよくなってきていることはたしかなのだが、若者たちは「がむしゃらに努力する自分」と「自分を厳しく指導する自分」というように、さながらプレーヤーと監督を一人二役でこなさなければ、この時代の持つポジティブな方向の流れにはけっして乗っていけないからだ。 ひと昔前までは「プレーヤーとしての自分」というひとつの役割だけに集中すればそれでよかった。「自分を厳しく監督・指導する役」は別の人がやってくれていたのだ。しかし現在はそうではない。自己管理能力が低い人にとっては、たとえ個人として持つ能力やポテンシャルが高かろうが「いい流れ」にはなかなか乗れない。本当にハードな時代の幕開けだ。 これからの時代、「厳しい大人」を自分で務められる人にとっては、ひと昔前では考えられないチャンスが広がるブルーオーシャンが見えるだろう。しかしそのようなロールプレイができないタイプの人にとっては、これまでと大して変わらない閉塞した世界が広がっているようにしか見えないだろう。両者の世界はまるで交わらないし、お互いの姿が見えないほど遠ざかって二極分化していく。 「厳しい大人」を、世の中の倫理的水準を高めていくにともなって駆逐したのは私たちだ。厳しい言葉を投げかけ、行動を抑制する人がいなくなった分だけ私たちは自由になったし、その自由によって、一緒にいたくない人からは容易に離れられるようになり、心が脅かされにくくもなった。 だが、その自由はなにもかもを許容してくれるやさしい表情と、すべてを許容するがゆえに一切の手を差し伸べない残酷な表情をあわせ持っている。

御田寺 圭