将棋のプロ棋士の中で「将棋は才能」という趣旨の発言をした実例としては渡辺名人、「将棋は努力」という趣旨の発言をした実例として永瀬王座が挙げられる。

 

渡辺名人 発言ソース

 

 

永瀬王座 発言ソース

 

 

これ以外にも、検索をすればいくらでも発言ソースが出てくるが、その内容を要約すると概ね以下の通り。

 

渡辺論

・昔は自分が誰よりも努力したから、タイトルを取れたと思っていた。しかし、自分より才能の無い人間(自分の息子)が自分が簡単に理解できたことを理解できないこと、また藤井聡太のような自分よりも才能を持った人間が出たことから、将棋は才能が占める割合が大きいことが分かった。

・自分も努力はしてきたが、努力ができるかどうかも本人の資質による部分が大きい(所謂、努力する才能の存在を容認しているように取れる)。

 

永瀬論

・才能の存在自体は、認めている様子が見られる。実際、上記永瀬発言ソースの1つ目にも、「自分は才がない方」という発言が残っている。

・一方で、才能がない自分がこの勉強法でプロになれたし、自分よりも才能のある人間と勝負できているのだから、結局その差は努力で埋めることができる範囲のものである。故に、才能なんかよりも努力の方が重要→それを誇張に表現し、「将棋は努力が全て」という趣旨の発言をしているものと思われる。

 

これらの発言をより簡単に解釈するため、まず才能とは何なのかを考える。そのために、以下のような簡単なモデルを考えてみることにする。

 

才能と言った場合、人によって考え方の程度差はあると思うが、上記①、②のいずれか(あるいは双方)を才能とすることに、そこまで違和感はないと思われる。

ちなみに私は、この①、②の両方を持って才能と考えている。

 

このモデルをベースに考えると、渡辺論では①、②の両方を才能と認め、さらに努力量x_iについても、個人の資質によって積み重ねることができる量に差があると考えている。所謂、努力する才能という奴である。

そういった意味では、私の考えよりも更に多くのファクターを才能と捉えていることになる。具体的には、私は努力ができるかできないかは努力する才能なんてものによって断じて左右されることはないと考えており、努力する才能を容認している渡辺論とはその部分で相違している。

 

当然ながら、人によって努力を積み重ねることへの耐性に差はあるだろう。しかし、勝利を収めるために努力をするのなんて当たり前のことである。勝ちたいのであれば、辛くても努力を積み重ねるしかない。

「努力する才能」は、ろくに努力していない人間が自分の怠慢を正当化するために発せられることが多く、そういった人間のせいで才能論者が怠慢な人間と見られるのは非常に不本意である。

努力論者には、才能の有無を判定するための最低限の努力をしても報われない経験を通じたからこそ、才能を論じている才能論者がいることを理解してほしい。

 

次に永瀬論について考えてみる。永瀬論についても、①のα_iが個人によって異なり、それ故に①の意味での才能の存在は認めていると考えられる。これは上の永瀬論要約の1つ目に書いた通りである。

一方で②について、β_iは個人によって差はなく、それゆえに大まかに言ってしまえば(α_i)×(x_i)によって結果が決まる→α_iで差があってもx_iで逆転できるのだから努力が全てとしているのが、永瀬論である。しかしこれはいささか強引すぎな論理ではないだろうか。

 

まず、β_iをiによらず均一と見ることに無理がある。直感的に考えてiが十分大きければ、その中の誰かはβ_iが異なっていると考える方が自然である。統計学の知識がある人であれば、分散分析型のF検定は有意になりやすいことからもこの考えが自然であると考えられるであろう。

更に言えば人間に与えられた時間が有限である以上、x_iには上限が存在する。したがって自分よりもα_iが大きい人間がx_iを上限まで投入した場合、どう頑張っても勝てないことになる。また、α_iが小さな差であればx_iによって逆転を図ることが可能かもしれないが、α_iの差が大きい場合には逆転するのが非常に困難となる。

永瀬自身は、上記①の観点での才能が自分にはなく、それでもプロになれたのだから誰でも努力すればプロになれると上記1つ目の発言ソースで言っているのだろうが、これはα_iの下限は自分ぐらいと見積もった、非常に傲慢な考えであると言える。

プロになれる時点で、このα_iが一般的に見れば非常に大きい値を取っていることは言うまでもない。こんな事は、一般人に将棋指導をした経験があれば容易に気付くはずである。実際に渡辺は息子に将棋を教えたことでこのことに気付いている訳だから、プロとして一般人に将棋指導をした経験があるだろう永瀬がこのことに気付かないはずがない。

それでもα_iの下限が自分であると言い張るのは、「自分の功績は全て努力のおかげ」と強引に主張するための雑な見積もりと言わざるを得ない。

 

何も我々才能論者は「才能がある人間は努力しなくても結果が出ている」と主張している訳ではない。プロは上記数式のα_iもそうだが、x_iも多くのものを投入していることだろう。ただ、α_iの値によってはどんなに頑張っても結果が出ない人間は確実に存在するのである。

 

結論として、私個人的には渡辺論についても少し意義を唱えたい部分はあるが、永瀬論についてはそれ以上にふざけんなと思う部分が多いということになる。

 

おまけ

今回の記事に少し関連しているのでついでに書くが、私は鈴木大介という棋士も嫌いである。やたらプロとしての身構えや道徳心のようなものを説く発言をする癖に、その行動は全くといっていいほど伴っていないからである。

 

 

上記のリンクに、永瀬がアマチュアに負けた際に「棋士はアマチュアに負けてはいけない」「アマチュアより強くなければいけない」といった趣旨の発言をしたことが書かれているが、それであれば鈴木自身がアマチュアと対戦する際にも、本気で勝ちに行くぐらいの姿勢を見せるぐらいでなければ、ただ発言だけはご立派で中身の伴わない糞野郎である。

 

 

ところが現実は、上の動画のように終始ヘラヘラ馬鹿にしたような態度で対局を進め、最後はわざとらしいリアクションを取りながら、故意と取られても仕方がないような時間切れ負けで、まるで「局面は良いけど面倒だからあなたの勝ちでいいですよ」とでも言いたげな態度である。

これでは、他人には口うるさくご立派な理想論を語るが、自分には激甘なロクでもない奴である。彼はこれ以外にも、発言に行動が伴わないいい加減さが目につき、とても好きにはなれない。しかし、言動に矛盾があるこういう人間の発言であっても強引に根性論でプラスの方向に昇華し、努力を続けるぐらいの人間でなければ、プロの世界で結果を出すことはできないのもまた事実なのかもしれない。