前回の記事ではアマチュア間における将棋の才能の話をしたが、今回はプロにおける才能の話をしようと思う。

プロ棋士においても何人かが将棋の才能について言及しているが、そのほとんどが「将棋は努力のゲーム」だの「才能があるとすれば、それは飽きずに続けられること」といった当たり障りのない綺麗事にとどまっている。

立場上、才能が重要であると言いにくいからこのようなことを言っているのかもしれないが、本心で言っているのだとしたら、「才能が関係ある」と正直に言うよりも感じが悪い。

彼らは勿論プロになるため、あるいはプロの中で勝つために努力をしたのだろう。それを否定するつもりはないが、それは周囲全員が天才の集まりで、才能の部分で差がつきにくいから、違う部分で差をつけるために努力したのである。

すなわち、才能があることが最低条件で、そのうえで努力による微妙な差が生きているのであって、これを持って「将棋は努力のゲームだ」等と主張するのは的外れもいいところである。

そもそも彼等は、アマチュア底辺時代に苦労したことがあるのだろうか?

幼少期に将棋を始め、なんとなく指しているだけで勝手にアマ高段となり、道場のような場所で周囲から天才だなんだと持ち上げられ、「じゃあプロでも目指すか」と奨励会に入り、そのあたりでようやく周囲も自分と同じ天才の集まりになることで努力することを覚えるのではないだろうか?彼らがプロを目指さずに、あくまでも暇つぶしの趣味の範囲で将棋をしていたのなら、大した努力をしなくとも県代表レベルに到達し、アマチュアの世界で雑魚狩りをして優越感に浸っていたことだろう。

アマチュアの世界を一瞬で駆け上がった彼らからすれば、数千時間単位で将棋に時間を費やしたにも関わらず、アマ高段どころか三段クラスの棋力にも及ばない人間がいることを、想像できないのではないだろうか?

自分たちが持って生まれた才能を大前提にして「努力が全てだ」等と言われても全く説得力がないのである。例えるならアイドル顔負けの容姿で、入学式初日から取り巻きを作るような人間が「恋愛は性格が全てだ」と主張しているようなものなのだから。

そういった意味で某プロ棋士が言っていた「毎日10時間勉強すれば誰でもプロになれる」という発言はアマチュアを馬鹿にした最高に気分の悪い発言だと思うし、逆に例の1件でバッシングを受けた某プロの「息子に将棋を教えて、駄目な人間は駄目であることを学び、自分が強いのは努力だけでなく才能のおかげもあった」という趣旨の主張は、他のプロが言いにくい事実をはっきりと言ったという意味で、評価できるものだと思う。