猿飛佐助や霧隠才蔵は本当に実在の人物ではないのか?
文芸春秋社刊司馬遼太郎全集一巻の解説で尾崎秀樹は、猿飛佐助や霧隠才蔵は立川文庫の作りだした虚構の人物に過ぎず、、、と述べている。
プロの批評家がこう明言するのであれば、確かに猿飛佐助や霧隠才蔵は存在しないのかもしれないが、これまでのそれほど多くない小説を読んだ経験に即して判断するなら、彼らは極めて魅力ある人物に描かれている。虚構の人物だとしても、それぞれの作者がそれぞれの物語の中で、細部はそれぞれに違いはあるにしても、彼らの人物像を壊さないように無意識に共有しているのだろうか?
それとも最初に猿飛佐助や霧隠才蔵が世の中に登場した「立川文庫」の中で描かれた彼らの個性があまりに強く人々の心に焼きつき、どのような小説であれ、彼らを登場させる場合は「立川文庫」の中で生きた彼らの枠を外せなくなってしまったのだろうか?
実在の人物なら、西郷の例をあげるまでもなく、毀誉褒貶さまざまであるが、作られた人物ゆえに一定した人物像が出来上ってしまったのだろうか。まア、もう少し様子を見てみよう。
吉川英治の「宮本武蔵」と黒澤明の「七人の侍」
やはり、そうだろうな。ちょうど今読み進んでいる吉川英治の「宮本武蔵」の第六巻で武蔵が貧しい村を盗賊から守る話が出てくる。
武蔵が自分一人で戦うのではなく、農民たちを叱咤激励して、彼らも一緒に戦うようにしむける。徒党を組んでいる盗賊達を武蔵の戦略で一人一人にしてしまい、その一人一人を農民たちが取り囲んでやっつけるのである。
武蔵の言葉を引こう
「わしを追いかけてきた賊が、反対に又ここへ、ちりぢりに逃げて来るに違いない。その時はお前たちがわっと声をあげ、不意に横から衝け、足を払え、真っ向を殴りつけろ。そして又潜んでは出、隠れては出、一匹も余さず打のめすのだ」
まさに「七人の侍」の雨の戦闘シーンそのままではないか。
グーグルで「七人の侍」を見ると、参考にした人物の中に宮本武蔵も出てくる。吉川英治の「宮本武蔵」の連載が開始された1935年に
黒澤は25歳。あの国民文学とまで言われた作品を読んでいなかったはずはあるまい。
食事の後で
さて、さて、日曜日の夜もだんだん終りに近づいてきましたね。ビール一本は飲んだとは言え、いわゆる中瓶です。しかし、弱くなりました。別にビール、ないしは一般的にアルコールに強い、沢山飲んでも酔わない、酔えないということが是か非かはひとそれぞれ、その場その場での判断も変わるでしょうが、やはり水を飲み出してからかな。以前炭酸入りの水の時はほとんど飲まなかったのに、炭酸入りではない水に変えてから、ほぼ月曜日から金曜日の午前中に少なくとも1ℓは飲むようになってしまった。午後からは飲まないようにし、週末は家だから事務所にいる時のように水を飲んでいないのに以前のようにビールが旨くなくなってしまった。ある面さびしい気もするが、まア、ビールがうまく飲めたからなにがどうのこうのというわけでもなし、外でアルコールなしビールを飲む日以外はほぼ毎日中瓶を変わらず1本飲んでいるのだからそれはそれで、、、なんだっけ、習慣になっているようなものだ。この頃ではそのビールの後、寝るまでビール以上の量の水を飲むようになっている。数年前の自分と比べると嘘のような話だ。風邪を引いて熱があっても意地になって、俺は兎歳だから水は飲まないんだ、などと言っていたのだから。
いずれにしろ、自分の意思を抑えて何かをすることは出来るだけ、出来れば避けたいものだし、水を美味しく飲めて、それが結果的に健康的なことであるなら、これは大いに歓迎すべきでしょう。
ではまた来週。