神奈川県で精神科病院に勤めていたころ、患者さんは実にいろいろな事情で入院しているし、職員はいろんな事情と背景の人がいてカオスと思った。あちこちの病院を見学したり話を聴いて廻った。1990年代のことである。精神保健法に変わったばかりで民間精神科病院では、体制を合わせて変えていこうという動きが少しづつ出てきていた。正看護師の取り合いで、作業療法やデイケアを開設し、病棟の建て替え等も行うことが行われていた。まだ、地域の就労支援や居住支援は少ない。病棟に電話を設置し病棟の不必要な施錠や鉄格子をはずし、病院の開放化、退院促進が中心だが、病院内の治療文化、内職作業やレクリエーションをどのように扱い、時には意味のないものをどのように廃止するか、障害に対する支援や回復・退院支援のプログラムをどのようにいれるのかが問題となる。リハビリテーションの視点で解決しようとしていた雇用される新卒の作業療法士がいた。作業療法士の雇用は金の卵どころかダイヤの卵並みに重宝され、当時、神奈川県下の精神科病院の半分はそういう方向にあったように思う。経営者や古参の職員と経営的な面やケアや業務の方法で対立や悩みをもつ新任の職員も多かった。患者さんはいきなり退院と言われても困るという人や任意入院と告げられて退院を焦る人もいたし、作業療法に期待しすぎてうまくいかなくなった人、作業を変えて休んで症状がよくなった人さまざまである。とりあえず着任し評価・計画・実施・検証報告を繰り返し、病院内でのパスみたいなシステムは作れたと思う。しかし当時は社会資源に乏しく社会の支え手も少なく、新薬の投薬や支援技術も未熟で再入院してしまう人もいた。退院して社会復帰や社会参加ではなく入院継続しながら社会参加と言う医師がいた。長い経歴の職員の一部からは余計なことをしてくれる人と見られていたようだしそのように扱われた。「自分はがん箱退院だ」と言う患者がいた。「一生ここに暮らせと言われて入院した」と言っていた。10年越しの関わりで「退院してよかった」と言われた。

 

 茨城に移って、再び精神科病院での精神科作業療法プログラムの導入に関わることになった。茨城県では2010年代に2/3ほどが病院を認知症に対応する病院に転換していたり、建て替えを終えていた。そのなかで、ようやくリニューアルに踏み切った病院であった。退院は年に数名あるかどうか。5年以上の入院者が半数以上であった。「家族が入院を望んでいる」「社会のために」「行き場がない、家族がいない」という形で長期入院者が大勢いた。院長を頂点に「特別な病気を親切丁寧にお世話をしている」有資格者・無資格者がいた。患者さんと仲良くやっているように見える形で請負内職作業をしていたり、レクリエーションをしていたりして、参加できる患者さんはそれでよいような構図の社会がそこにあった。いわゆる軽作業的な仕事に従事できる患者は高齢化とともに減っていき、高齢化や個々の特性に合わせて、退院や社会生活に必要な活動が求められていた。すごく重度と思われる障害の患者にもその人にあった活動の処方が必要であった。経営者陣が2代目の時代になり、作業療法の場や内容も含めていくつかの改革や変更がなされた。苦労していたのが長く勤務している職員や出入りの業者と着任する新しい職員の扱いのようであった。療養施設から病院らしい形になり建て替え移転と並行してケースワーカーの尽力もあり、長期入院者の半数以上が移動や退院して、再入院は先の病院と比べると割と少なかった。ただし、転院や移動が難しい条件の在院患者のなかには保護室利用が増えたり機能や病状が悪化したような人がいた。ほかの作業療法士も勤務し、中身は少しづつ変わっていくだろうと思うところで自分は離れた。