あじさいのーとと言う自分の過去のブログをみて書付をファイルに転記する作業をしている。

 

今日は「教育者と学生が役に立つかどうかを扱う限り、消費者としての学生しか育成されない」と言っている人のことが書かれてあって自分の意見が添えられていた。2008年の夏であった。意味のある作業、役に立つかどうかというテーマが頻回に出てくる。 

 

 今朝のアニメを見ていたら「子どもは役に立たないものを集めて、いろいろやってみるのが楽しいんだよ」と素材集めが得意な副主人公がいう場面があった。200万年の人類の科学叡智を取り戻すという主人公はいろいろとあるものを工夫していく。素材をただの石とみるか区別して使うかは違う。 

 

テレビ、マンガやアニメは馬鹿になると言われた時代もあったことを思い出す。

 

 消費者として楽しむことを知ったうえで新しいものを創造して楽しむ文化の担い手へシフトしている人も多いのではないか。消費者として楽しむことができない人や経済的、環境的に不利な立場でそれが満たされない人、消費者に拘泥する人達とどう共存していくか。

 

 その人は他人の役に立つかどうか?他人が自分の役に立つかどうか?自分は他人にとって役に立つかどうかをつきつめていくとろくなことがないような気がしている。でもそれらを考えないで判断を放棄してしまうことは自他の権利を侵害する。これはアウシュビッツに至る経緯や生活療法の作業の利用による弊害と障碍者の人権について調べていくうちに最近思うことである。

 

 自他の楽しみや他人が大切にしようとしていることを尊重することはきゅうきゅうとして生きていくことに精いっぱいの環境や状況に置かれている人には難しいことがある。ルールや文化習慣に身をゆだねて考えないという生き方もある。

 

 個人の中にもいろいろあって、全か無の分け方ではなく、あいまいな部分で他人と接している。ほどほどのお互いさまで生きていくやり方ができるような余裕や適度な関係を持ちたいものである。