5月6日



建仁寺の続きです。



    方丈前庭  「大雄苑(だいおうえん)」
1940年(昭和15年)に造られた方丈前庭は、中国の百丈山の眺めを模して造られたと言われています。百丈山の別名が大雄山であることから「大雄苑」と名付けられました。白砂に緑苔と巨石を配した枯山水庭園です。
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        向唐門(むかいからもん)
                         (京都府指定文化財)
江戸時代前期の寛文年間(1661年~1673年)に造営されたと伝えられています。造営当初の屋根は杮葺き(こけらぶき)でしたが、後年に瓦葺きに変えられました。瓦の重量を支えきれず桁が折れ、更に経年劣化による木材の腐食が進んだために、近年(平成21年頃)木材修理と屋根の葺き替えが行われ、屋根は銅板葺きとなりました。
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枯山水庭園は、水をいっさい使わず、石や砂で自然の美を表現した庭です。ここにいくつかの自然石が配置されています。
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法堂への渡り廊下にある花頭窓から見た大雄苑。
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方丈正面の大廊下の縁に座って庭園を眺める。
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      方丈西面    大雄苑にある七層石塔
西南隅にある七層の石塔は、織田有楽斉(うらくさい)が兄、信長を弔うために建立したものです。
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        霊照堂
納骨堂です。
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        田村月樵 遺愛の大硯
田村月樵(たむら げっしょう)は、幼少より絵筆に親しみ、晩年は仏画に没頭しました。67歳から69歳の時に、建仁寺の方丈の襖絵「唐子遊戯図」や塔頭 霊源院(僧堂)の襖絵「雲龍図」を描きました。方丈の裏側にあるこの「田村月樵 遺愛の大硯」は、月樵が生前愛用した長さが三尺もある大きな硯で、大海原に臨んで一匹の蛙が腹ばいで前進する様子を月樵自身が刻んだと伝えられるものです。
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        清涼軒
月釜で実際に使われるのは、茶室、東陽坊の隣にある「清涼軒」です。
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        東陽坊(とうようぼう)
草庵式二帖台目席の茶室です。豊臣秀吉が1587年(天正15年)に北野天満宮境内において催した北野大茶会の際に、千利休の高弟 長盛(ちょうせい、真如堂 東陽坊の住職)が好んだと伝えられる茶室です。構成や意匠ともに薮内家の燕庵に共通する点が多く見られます。大正時代に建仁寺境内の現在地に移築されました。
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東陽坊の内部は、二帖台目席の茶席、一帖の合の間、二帖台目向板の控室、板の間の水屋から構成されています。茶室南側には秀吉遺愛の烏帽子石が置かれています。
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茶室の西側には建仁寺の見所の一つとされる「建仁寺垣(竹垣)」が設けられています。
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禅寺の「方丈」の前には、必ずといっていいほど「枯山水庭園」があります。
白砂と緑苔と岩がいくつか配された庭園です。
「大雄苑」のこの白砂は雲海を表したもので、岩はそこから突き出てそびえる山の頂きだそうです。
大廊下の縁に座ってのんびり眺めていると心が落ち着きます。
四季によってまた違う景色が観られるのでしょうね。