続編No.47<客観性の所在> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

続編No.47<客観性の所在>

確かに、霊的自覚にまつわる愚見は、唯物論的観点からすれば、私の主観に過ぎないものかもしれない。しかしながら、果たしてこの世に、真の客観など存在するのだろうか。

いついかなる場合であっても、我々は主観を超えて物事を認識することなどできない。
これは、量子力学の不確定性原理にも見出すことのできる真理である。
我々が何かを客観的にとらえようとしても、そこに観測者が存在する限り、客観などありえないということだ。
我々にあるのは常に主観であり、客観など幻想にすぎない。

にもかかわらず、客観をもって論考せねば価値がないという考え方は、これもまた一つの宗教であるだろう。
学校の教科書から著者の哲学が消されて久しいが、こうしたことが、今日、多くの子供たちの勉強嫌いを助長し、その精神を蝕んでいる原因の一つであるのかもしれない。
哲学を否定するということは、ハートを否定することであるからだ。
学問がハートを失うということは、愛=神を見失うことでもある。

ここにも、唯物主義を助長せんと意図する者の陰謀があるかも知れない。
学問に宗教を持ち込むとは何事か。哲学を持ち込むとは何事か。
彼らは宗教戦争や宗教裁判を例に挙げて、その功罪をまくしたてる。
確かに、思想教育の危険は教育現場につきものだ。
だが、彼らのいう唯物論もまた、宗教にみられる教条主義と相並ぶ、科学合理主義という名の教条主義ではないだろうか。
それらがもたらす弊害は、認識されにくいだけに罪も大きいと私は感ずる。