続編No.29<個性の尊重とは> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

続編No.29<個性の尊重とは>

個性の尊重とは、互いの異質を容認することに通じる概念である。
思想や思考、あるいは嗜好の傾向に関わる互いの異質を尊重すること。
そして、真の個性尊重は、真の調和をもたらし得ると考えられる。

日本文化には、「和をもって尊しとなす」という、調和重視の概念が古くから根強く横たわっている。けれども、これが人のエゴによってネガティブに作用すると、「出る杭は打たれる」という個性否定の状況を招くと考えられる。

この、際立つ個性に対する排斥作用には、大きく二つの要因が考えられよう。
まず、第一は嫉妬だ。
自分と同等であるはずの存在が、突出することに対して湧き起こる無意識的な否定の心。
これは、杭を打つ側の問題である。
それは、自己遺伝子を優先的に残したい、そのために自己の優位を誇示したいというエゴに端を発した情念とみることができる。
この作用により、他者が優位を示すことを本能的に恐れ嫌うことから、杭を打とうとするのだと考えられる。

次に問題なのは打たれる側にみられるもので、その自己主張に、虚栄や慢心、驕りたかぶり、自負心が著明である場合だ。これも、自己の優位を誇示せずにはおかない、エゴに起因した心の働きである。こうした傾向が顕著であれば、嫉妬がなくても、調和を維持するために、これを粛清しようとする無意識の力が周囲から作用することになる。

けれども、本物の個性とは少々の迫害にはめげないものだ。
実際、世間で活躍し、リーダー足りえている方々は、こうした独特の日本文化の中でも、決してスポイルされることなく、個性を存分に発揮している。その道のりは、決して平坦ではなかったことだろう。また、人生のどこかで、何かの迫害や障壁を経験してきたに違いないと私は考える。それでも、決してめげることがなかったからこそ、そこに成功が約束されたのではないだろうか。ならば、子供時分にそうした障壁を経験しつつ、己が身を守る傍ら、個性を伸ばす術を培っておくことも必要になってくるはずだ。いじめの存在は、度が過ぎることさえなければ、必ずしも悪いこととばかりはいえないかもしれない。

己の価値は、誰かや何かの評価によって決まるものではなく、己自身が決めるもの。己の目線をどこにおくかで決まるものだと私は思う。
現況に不備があったとしても、それを周囲の要因、誰かや何かのせいにばかりするのでなく、不屈の自己実現に向けて志を育む営みをこそ、各自が目指すべきであろうと愚考する。
そのためには、謙虚さをもって、己が身を顧みることが不可欠だ。それこそが、真の個性尊重を導き、調和を実現させるのではなかろうか。