<報復死球の是非> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

<報復死球の是非>

プロ野球では、報復死球なる愚行がまかり通っているようだ。
以前、自身の哲学と相容れぬこの愚行をチームから強制され、悔し涙を流した上原投手(巨人)の姿が思い起こされる。
当時、メイ球界のご意見番と称するお歴々の中には、報復死球も勝つためには止むを得ぬなどと主張する御仁もいた。
何でも、選手のモティベーションを上げるには必要だからというのがその理由なのだそうだ。

勝負事に関する限り、私は彼らの足元にも及ばぬ素人ではある。しかしながら、何が間違っていて、何が正しいのかをいうとき、彼らの見識に私のそれが劣っているとは思わない。
確かに、プロである以上、勝つことは目的の一つではあるかもしれない。
それは個人成績やチームの戦績に反映され、年俸に還元されることとなるからだ。
そう考えると、勝つための目的はお金であるということができる。

では、お金を稼ぐ目的はといえば、それは生きることである。となれば、最終的に考えるべきは、生きる目的であろう。
私はこれを個々の霊的進化、意識の神化、成熟に見出しており、こうした報復行為が人の生きる目的に反すると断言する。

一方、プロ野球が興行によって収益を得ている以上、それは観衆に夢を与える商売だということができる。同時にそれは、子供たちのよきお手本でもあるべきではないだろうか。
子供たちがつぶさに観ることのできる大人社会のモデルだからだ。
ならば、報復死球を観て、子供たちが何を思うのかをこそ、問題にすべきである。

報復行為は、お金のためならばルールを度外視しても構わないという歪な価値観のあらわれ、唾棄すべき蛮行そのものである。
よって、報復死球の横行を容認する今のプロ野球、ルールを破って恥じることを知らぬ愚劣な人種の競演など、わが幼き息子に観せる気など起きるはずもなく、早急な体質改善が望まれる。