よくこのお話は、
「個人」には理解できない、「私」には入ってこない、聞こえてこない
という表現を聞きますが、
でもそう言われると、真理が「聞こえない自分」に対し向こう側には、真理に「気づいた誰か」がいる、という感じしかしないんじゃないでしょうか
その表現はあくまで、言葉のあやというか表現のあやというか、
「この話」や「個人」や「私」が存在するわけではありません。
「まだ」聞こえない私という自己否定、私にも「いつか」聞こえるはずという期待、聞こえたらラクになれるという願望が起きると思いますが、
それが、「私」という感じそのもので、それが起きているだけなのです
その「起きている感じ」だけを「リアリティ」と表現すると、
何だか「今ここ」にとどまるマインドフルネスとか禅のような、
「私」が安心するためのやり方や境地の話と変わらなく聞こえるかもですね
つまり
ストーリー=起きていない幻想
に対し
リアリティ=起きている確かな現実
としてとらえる
対象世界と常にセットで起きるのが、いわゆる「個人」という動きであり、
「起きていないこと」に対して「起きていること」を分けて安心する「私」感が、より強く起きてくるだけですね
さらに、
「ここから出ている声はただの音で、実体のないキャラクターの現れに過ぎない」
などと言う表現を聞くと、
いるように見えるAさんは本当はいなくて、アニメや映画の登場人物のような、
意志を持たない抜け殻のような身体が向こうにあって、全自動で動いているだけのようにしか思えないかもですね。
そしてその声が出ている「ここ」は、
私がいる「ここ」に対する「向こう」であり、
私の「ここ」が向こうの「ここ」と別々にあるんだ、という感じではないでしょうか
ダイレクトさとしての「ここ」って、どこか特定の場所でもなければ、「あそこ」に対する「ここ」でもないんですよ
それがここで言ってる「これしかない」って感じのニュアンスですから
「キャラクター」なんてありませんよ。もちろん、「身体」も「声」も「音」もありません。
「~な感じのAさんが、~なことしゃべってる」という感じがしたら、その感じが起きてるだけですから
結局それがどうした、だから何なんだ、ということしか書いてないわけですが、笑
だから真理でも教義でも手段でも知識でもないこの話では、
人は集まらない、金は取れない、ビジネスにならないって言ってるわけで
それが成り立つには、個人の期待や勘違いをニコニコ笑って受け流してくれるような気がする(逆に強く否定して興味を引きつけるのも同じことですが)
別の意味での求心力やエンタメ感が必要なわけで、
キャラ感やエンタメ感を極力排し、「コンテンツ」ではないこの話を淡々としているだけのshoのブログには無縁だな、というお話でした