語るよ。
お久しぶりです。
人見知りやめよう2014を掲げてアーカイブ優先で日記書いてたりしたんですが、
アーカイブって、お友達とかアーカイブに登録しているレイヤーが相手になるという至極当然の理由で、
「読者」がふんわりしている方が私にはやはり良いのだなとTwitterとかもやっていて思いまして、
やっぱりブログに戻ろうと決めました。
いやー、ずっと放置してたので、
なんと昨日のヒット数がちゃんと更新してた頃より2桁も少なくて、
流石だな、って思いました。
さて、今日のお話。
前々から書いてたりしてるので、またかよwって話なんですけど、
なんか
世の中本当に「正義」に飢えてんなぁ、と思う事例が私の周囲で続いていてですね。
一言に正義って言っても、
勝てば官軍とまで極論は言わないけども、大きく分けると、
・悪を叩くことが正義
・信念を貫くことが正義
ってあると思うんです。
この世の悪を成敗するという信念を貫く正義、もあるとは思いますけど。
この二つは一見おなじ「正義」なんですけど、
全く性質が違うんですよね。
例えば人数。
前者は「悪」という他者がいることが前提で、
後者は自分一人で成立する。
この二つは芝居でもよく出てくる題材で、
『忠臣蔵』とかは(脚本にもよるけど、多くの場合)、
吉良という悪人に仇討ちをする、ので前者。
『シンドラーのリスト』とかは、
誰かを成敗するのではなく自らの良心に従った行動をするだけで悪を叩いたりはしてないので後者。
って感じ。
私は芝居やエンタメとしてはどちらも好きです。
しかしですよ。
現実世界は3時間やそこらの芝居のように簡単じゃないじゃないですか。
例えば歴史とかでもさ、
織田信長は善人か悪人か
とかいうのは人によって考え方が違うと思うのね。
コンクリ殺人事件のやつら(あえてやつらと使いますよ、私は)みたいな本当にこれは人間の所業か?みたいな『完全なる悪人』っていう存在もごく稀にいますけど、
殆どの場合、
対立する両者もその方面から見たら正義だろうと思うし、
その正義が『完全なる正義』である場合はそこまで多くなくて、
両者が「嘘を付かず」に状況を説明したとしても、
嘘は言わないまでも、本当の事は言わないとか、
確かに見ようによってはそうとれる、
みたいなものが多い。
あと、自分には些細なこと。
でも相手には大きなこと。ってのも。
私はどちらかというとこれで「勝手に被弾」することが多いです。
なんていうか、感受性が豊かとか、共感力って言葉使うとプラスっぽく聞こえますけど、
何にでも感情移入する悪いくせがあって、
いじめっ子、いじめられっ子の両方に感情移入して、第三者なのに辛い、みたいな。
無駄に掘り下げると、
いじめっ子といじめられっ子の両方に自分の性格や容姿と共通する部位をみつけて、あの人がやる(やられる)なら、私もいつかそうなるのであろう、
という恐怖とか不安とか自己嫌悪。
それといじめてしまう心理と、いじめられている側の心理に思いを馳せて吐き気をもよおす。
で、その心理を相談すると、いや、お前とあれは全然ちげーし、と言ってくれる友人に恵まれた学生時代だったのでなんとか大人になれた気がします。
さておき。
正義なんてそんな不確かなものなんですよ。
人を殺しちゃいけない、とか
人のものを盗んじゃいけない、
みたいな一見普遍的な正義の基準すら、
「正義のためなら、悪人を殺すこともやむなし」
↑戦争のきっかけになりがち
「正義のためなら、悪人から金を巻き上げてもよい」
↑ネズミ小僧とかもこれな
って変化するからね。
それ故に、
私は日常生活で正義を振りかざす楽しさを味わいたいという方々には、
「信念を貫く正義」
の方を是非とも使っていただきたいと思ってる。
何故ならそれなら大抵の場合は他人を巻き込まないから。
その正義が自分の正義と違っても、無視すればいいだけだから。
よしんば接しなければならないとしても、お互いの歩み寄りが可能だから。
悪を叩く正義の方が
結果がすぐ出て目に見えて満足が得られやすく、
単純で簡単ですよ。
でも信念を貫いて、一方から見れば悪とされたものが改善、改良された方が不幸になる人が少ないじゃない。
って、思うんですよ、ね。
まぁ無駄に正義大好きな今のコス業界は、
信念を貫くためという大義名分で、
他人に価値観押し付けるとか、悪を叩くとかが横行してるんで、
大変に見苦しいですけど。
反面教師として学ばせていただくのが正しい接し方なのかなぁと思ったり思わなかったりです。
うん、久々に長文書くとやっぱり楽しいや。
そういえば、次はワンフェスです。モンハンにするか、黒猫のウィズにするか、もう作ってある妲己で行きます~。