今朝方、まどろみの中で、考えるともなしに考えていたこと。

江戸期の日本人と、その人達を観察した異邦人たちの記録・・・

江戸期の日本人は、絵画や陶芸、彫刻、建築技術、服飾、生活雑貨に至るまで、卓越した技巧を備えていた。
茶や俳句、草花への愛着など、感性のレベルの高さに異邦人たちは驚かされた。
生活空間、間の活用、無駄のない暮らしと余裕ある心が在った。

一方で

異邦人たちは当時の日本人の、男女問わず裸に対する羞恥心の無さに驚愕し、同時に性に対するあまりの大っぴらさに呆れかえる者も多かったようだ。

あまり触れられないけれど、記録される当時の日本の様子が事実だとすると、その様は今の日本人の目にも異様に写ると思う。

それは、外から持ち込まれた秩序や倫理観、清潔といった観念がそう思わせる面もあるだろう。

日本人たちの有り様はある一面で、完成された高度な文明を持ちながら、一方で原始的とも言えるほどの奔放と堕落(西洋的観念において)があった。

当時の日本は男娼も禁忌ではなく、まるでソドムの片鱗を見ているような印象を抱かされる。

僕は、心のどこかで、江戸期の日本人がもっていた文明と、彼らの有り様にアンバランスを感じている。
つまり、彼らがもっていた文明は、彼ら自身が到達(考案)したものではなく、持ち込まれたものなのではないかと疑っている。

この疑問は、現代人が、明治以降に植え付けられたヒューマニズムを通して見る幻想なのか。
当時の寛容派が言うように「彼らは罪を犯しているのではなく、単に罪を知らぬ」のだと考えるものなのか。だとすれば、そんな彼らが到達した高度な文明とはなんなのか。

日本人とは何者なのか、未だに掴めない。