http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-19632020110220


 [トリポリ 20日 ロイター] 反政府デモが続くリビア第2の都市ベンガジで19日、治安部隊がデモ隊に発砲し、目撃者によると、数十人が死亡した。こうした混乱を受け、同国のイスラム教指導者らが、治安部隊に殺害を中止するよう訴える声明を発表した。


 中東の衛星テレビ局アルジャジーラは先に、葬儀に参列していた市民らを治安部隊が

http://www.asahi.com/international/update/0221/TKY201102200516.html


【カイロ=貫洞欣寛】カダフィ大佐による独裁体制が40年以上にわたり続くリビアでは20日、ベンガジなど東部を中心に続く反政権デモが、首都トリポリに近い西部ザウィヤなどにも広がった。政権側は実弾発砲を含む強硬な鎮圧策をとり続けており、ベンガジの病院の医師がAP通信に語ったところでは、一連の衝突による死者はベンガジだけで200人を超えた。

 デモが収まる気配はなく、死者はさらに増えるとみられる。一方で、対応を巡って政権内に亀裂が生じているとの報道もあり、カダフィ体制が大きく揺らぐ可能性もある。

 国外在住の反体制派や衛星テレビ局アルジャジーラなどによると、デモは東部のベンガジやベイダ、ダルナなどで続いているほか、首都トリポリの

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201007130317.html




「脱成長」を掲げて経済発展や開発のあり方を問い続ける仏の経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュ氏(70)が、日仏会館の招きで来日した。初の邦訳書『経済成長なき社会発展は可能か?』(作品社)が今月刊行されたラトゥーシュ氏に、あるべき経済政策などについて聞いた。

■地域社会の自立こそ必要

 同書は欧州を中心に広く読まれており、日本での出版は13カ国目になる。「脱成長(デクロワサンス)」は、「だんだん弱く」を意味する音楽用語「デクレッシェンド」と同じ語源をもつ。経済の規模を徐々に縮小させ、本当に必要な消費にとどめることが真の豊かさにつながると氏は説く。

 「私が成長に反対するのは、いくら経済が成長しても人々を幸せにしないからだ。成長のための成長が目的化され、無駄な消費が強いられている。そのような成長は、それが続く限り、汚染やストレスを増やすだけだ」


国会を中心とした日本の政治の世界は、
まるで自民党が次期政権であるかのような顔をしている。
しかし確かに民主党政権も失敗だが、
かと言って自民党に「復活」する資格はない。
われわれ国民は自民党による戦後の長期政権には懲り懲りしたはずだ。
考えてみれば自民党政権が戦後長期にわたって続いたのは、
主に経済が成長路線にあったからではないだろうか。
そしてグローバリズムの「失敗」によって、
ある意味民主党政権は運が悪かった。
この今の政治の混乱の原因は、
すべてがそこに集約されるような気がする。
たとえ自民党政治が続いていたとしても、
この経済の混乱と低迷は、
つまり結果は同じだったろうと私は思う。
特に酷かったのは、
小泉政権による「小さな政府」政策の大失敗である。
つまり今にして思えば、
国民は小さな政府がいいのか大きな政府がいいのかという
基本的な選択に失敗してきた、
と言うより、いまだにはっきりと選択して来なかったのである。
その時々の雰囲気によって政治の選択を誤ってきた結果ではないだろうか。
もちろん、
小さな政府か大きな政府かという選択の中間を選んでいるのかもしれない。
あるいは、
一度小泉政権という小さな政府政策を選んでしまって行き詰まり、
次にどうしようと逡巡(しゅんじゅん)した結果かもしれない。
と言うか、
一度失敗した基本的な政策の失敗を回復することは
どの政党が政権をとっても不可能だったのではないか?
少なくとも簡単なことではないのだ。
それに背景には、
日本だけではなく世界的な経済の混乱があった。
いま民主党の失敗を責めることは簡単だが、
自民党なども思いあがってはいけない。
もしまたここで自民党を中心とした政治に戻っても結果はまた同じだろう。

つまり時には国民自身の辛抱強さが必要ということだろう。








最近の裁判、
特に重大な刑事事件に対する刑罰を
あたかも「犯人」への私怨に基づく報復とする被害者・遺族が多いような気がする。
特に死刑制度の是非論も含め、
「犯人」を死刑にしてくれと訴える被害者・遺族が多い。
それではまるで「やられたらやり返せ」という、
実に短絡的で感情的な刑罰になってしまう。
法律に基づく刑罰は、
決して「報復」であってはならないのは言うまでもない。
感情的に「犯人」を見てはいけないと私は思う。
そのような裁判は、
あたかも前近代的な、
私怨に基づく報復になりかねない。
被告が否認している場合はもちろん、
認めている場合にも、
裁判には常に間違いというものがあり得るということを
感情的にならずに冷静に判断しなければならないのであって、
繰り返すが、
刑罰は決して報復ではないのである。
そしてそのためには、
いわゆる被害者感情を考慮してはならないのだ。