誰もが知っている有名なピーター・パンの物語。原作小説でも大筋の物語はディズニー映画版と変わらない。しかし、物語には愉快なばかりでは終わらない要素が含まれている。

 

 まず、ウェンディ、ジョン、マイケルがネヴァーランドへ行ってしまうことによって悲しい状況が訪れる。ダーリング氏、ダーリング夫人、それに子守り犬のナナが、大いに悲しむことになるのである。ダーリング氏に至っては責任を感じて、子どもたちがいなくなって以後、犬小屋から出てこなくなってしまい、会社にも犬小屋ごと行くという徹底ぶりである。

 

 また、ピーター・パンや宿敵ジェームズ・フック船長の出自にもなんとも言い難い要素がある。以下はピーター・パンが語る母との唯一の物語である。

 

「ずっとむかし、」ピーターは言いました。「ぼくもきみたちとおなじように、ぼくのお母さんが、いつもぼくのために窓をあけておいてくれるだろうと思っていた。だから、ぼくは、いくつも、いくつも、いくつも、月の出るあいだ、家に帰らずにいて、それからとんで帰った。けれども、窓はしまって、かんぬきがかかっていた。お母さんは、ぼくのことをすっかり忘れてしまっていたんだ。そして、ぼくのベッドには、小さい男の子が眠っていた。」(214)

 

家からいなくなってしまった男の子が母を信じて帰ってくると、すでに存在自体を忘れられてしまっているという悲劇の物語である。

 

 フックは「かつて有名なパブリック・スクール」に通った少年だったという経歴を持つ(257)。海賊になった後も「かれがもちつづけているのは、正しい作法にたいする熱情」である(257)。フックが執着する「正しい作法」には、彼の社会的なコンプレックスが隠されている。というのも、水夫長スミーを見て、フックはこう考えているからである。「この水夫長は、知らずして、正しい作法を身につけているのだろうか?」(260)。「フックは、学校にいたころ、裕福な生徒たちのクラブに入れてもらうためには、『正しい作法』などはもっていることを忘れるまでにならなければならなかったことを思いだしました」(260)。フックは、学校で裕福な子どもたちへの羨望とコンプレックスを感じていた。このことが大人になってからも彼の人格に多大な影響を与えており、彼がしばしば憂いに満ちた表情を浮かべる所以でもあるだろう。

 

 児童書ではありながら、大人が読んでも興味深く思われるのは、しばしば語り手が大人の視点から物語へ介入してくるからでもあるのかもしれない。

 

(2024/06/12読了)