日本では高校生のときに教科書で学ぶことが多い夏目漱石の小説『こころ』を、やはり高校生の時に一度読んでみた。しかし、そのときには内容に対する理解力だけでなく、その情緒に通じるための経験があまりにも欠如していた。三十路を過ぎて、読み返す。

 

 『こころ』は「先生と私」、「両親と私」、「先生と遺書」という3部から成るように、語り手の学生「私」と「先生」の交友を描く部分、「私」と両親との関係を語る部分、そして、「先生」から「私」に当てた遺書の部分に分かれている。しかし、多くの読者の印象に強く残るのは、「先生」が「私」に友人Kと現在の妻との三角関係を語る「先生と遺書」であろう。確かに、学生時代の先生が下宿先の娘に恋をして、同じく下宿する友人Kも同じ娘に恋をした結果、「先生」の裏切りにあったKが自殺してしまうという経緯はセンセーショナルである。

 

 それでも、この事件の後に良心の呵責に苦しみ、蟄居生活を送る「先生」に出会う「私」の物語も見逃してはいけない。「私」の父は腎臓を病み、余命幾ばくもない。故郷の父と、東京の「先生」は「私」にとって、これからの人生を歩んでいく上で大切な存在であり、学びの源泉である。母と「先生」の妻も合せて、対照的な夫婦と関係する中で未熟な「私」は成長していくのである。

 

 学校を卒業して故郷に帰った「私」は、「卒業が出来てまあ結構だ」という父に対して(114)、「大学位卒業したって、それ程結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」という(115)。父の言葉に込められた意味を「私」は感じ取れてないのである。父は「つまり、おれが結構ということになるのさ。おれは御前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬御前に会った時、ことによるともう三月か四月位なものだろうと思っていたのさ。それがどういう仕合せか、今日までこうしている。起居に不自由なくこうしている。そこへ御前が卒業してくれた。だから嬉しいのさ」と感慨を述べるのである(115)。

そんな父が本当に危篤となったとき、「私」は先生からの遺書を受け取るのである。遺書だとは知らず、父の危篤に動転している「私」はその手紙を読むことができない。しかし、目に飛び込んできた言葉――「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世には居ないでしょう。とくに死んでいるでしょう」――に驚いた「私」は父の死の床を離れて衝動的に列車に飛び乗ってしまう(166)。その東京行きの列車の中で「私」が読む内容が「先生と遺書」の内容なのである。この小説は「私」が故郷の父と、東京の「先生」を同時に亡くした後に、すべてを振り返りながら語る物語なのである。

 

(2024/03/16読了)