木下古栗による中編小説集で、奇妙な物語が3編収録されている。表題作「金を払うから素手で殴らせてくれないか?」は、そのタイトルが既に読者の興味をそそるものである。しかし、最初の台詞のかき立てる好奇心に逆らえる者はいないだろう。「『おい鈴木、米原正和を捜しに行くぞ』とその米原正和が言った」(121)。ある調査会社に勤めている米原正和は部下の鈴木にその米原正和が失踪したから捜しに行くという。そう言葉をかけられた鈴木も、捜索を告げられた米原の上司も、その異常な提案に疑問を投げかけるでもない。こうして米原正和を筆頭に米原正和の捜索が真剣に遂行されることになる。部下がトイレに立っている間にその携帯に米原の住所を打ち込み、自宅の捜索に出かけたりと、捜索を勧めていく中で自然に行われる米原の自作自演がコミカルで面白い物語である。しかし、自分探しという哲学的であるはずの旅が、日常の社会生活の中で仕事として行われるという異常事態は、やはり最終的にそういった結末に行き着くしかない。

 

 残る物語「IT業界 心の闇」や「Tシャツ」もなかなかに奇妙な作品である。前者でははじめ主人公らしき人物がIT企業の若きやり手社長の催すホームパーティへの出席をやんわりと断り、自分の勤める会社の社長の不倫相手のふりをして社長夫人に頭を下げに行く。明らかな泥沼を切り抜けて、社長夫人と二人カフェに行くことになるけれども、その悲惨な結末はおそらく誰にも想像がつかない。斜め上からの結末に衝撃を受けるばかりである。そうして物語は主人公かと思われた人物が、ホームパーティで起きた悲劇を友人から聞くという形で締め括られるのだが、タイトルと深く結びついているのはこの伝聞の物語の方なのである。

 

 「Tシャツ」では日本人の妻亜希子を亡くしたアメリカ人ハワードが帰国した後、薬物依存になり10年以上を経て日本の妻の実家を訪れる話から始まる。しかし、このハワードの物語と思われた話は徐々に彼の周りの人々の物語へととりとめもなく拡散していく。物語が意味もなく散らばっていく有様は言い切りや体言止めが多用される情報伝達のみを目的としたような文章とも絶妙なリンクを見せているように思われる。多様な人々の人生模様が語られる中で、時折さらりと登場人物たちの死が報告され、物語は急にスケールを広げ唐突なまでにあっけなく幕切れを迎えることとなる。

 

(2024/02/07読了)