「トカトントン」の主人公「私」は某作家に手紙を書く。「私」は終戦のときに自決を決意した直後、金槌で釘を打つ「トカトントン」という音を聞き我に返り、生きて帰郷を果たす。けれども、それ以後、「私」が何かを確信したり、決意すると必ず「トカトントン」が聞こえてきて、途端に何もかも馬鹿らしくなってしまうという。「私」はこの身動きできない状況から脱する術を尊敬する某作家に求めるのである。

 

 「トカトントン」という音によって「ミリタリズムの幻影」から目を覚まし、辛くも帰郷することができた「私」にとって、絶対的な確信や決意というものへの不信感というべきものができたのではないか。前田は「何か確信的なことを思ったり、決意しようとすることへの本能的な恐怖・畏怖があり、それが〈トカトントンという音〉のシグナルとして立ち現れるのである」(前田 9)。しかし、すでに死の危険はないにもかかわらず、あらゆる日常的な出来事や思考において、「私」は「トカトントン」によって制止されてしまい、無気力へと追い込まれていく。こういった精神的な麻痺の状態は、大戦のトラウマとして反復する「トカトントン」によって引き起こされているのである。彼の思考や生活に「トカトントン」というトラウマの音が断続的に鳴り響くさまは次の文章によく表れているだろう。

 

もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞こえ、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮かんでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、こないだこの部落に火事があって起きて現場に駆けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン。

 

「私」の思考がトカトントンによって常に麻痺に追い込まれている様子が、この一文に凝縮して表現されている。これは一種の戦争神経症といえるだろう。

 

 しかし、「私」から手紙を受け取った某作家の返事はいかにももったいぶったものである。マタイ10章28節を引用しながら、「真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです」と、勇気をもって決断することの重要性を説く。これは、「私」が日常的に様々な決断や核心に躊躇していることを、「私」の決断力のなさ、勇気の欠如のみへ帰した説教である。手紙を引用する語り手が、某作家を「むざんにも無学無思想の男」と評するのは、某作家が「私」の精神的麻痺の根本にある戦争体験を理解していないことを見抜いているからだろう。「私」を苦しめている「トカトントン」は、決して「私」の臆病心などではなく、戦争のトラウマなのである。このことを理解していないために、某作家は「私」を救うことができないのであり、彼を揶揄しているだけの語り手も「私」を救う術を知らないという点では同断である。戦争によって精神的麻痺に陥った「私」が状況を打開できないように、周囲の人々もそういった状況をどうしようもできない一種の麻痺状態にあるのである。

 

参考文献

前田角蔵「太宰治『トカトントン』論――戦後のうつの〈闇〉――」『近代文学研究』、30号、2017年、pp. 1-18。

 

(2020. 7. 15 読破)