こおろぎ嬢と呼ばれる若い女性を主人公に据えるこの物語は、「風のたより」に基づくという設定であるために様々な噂や憶測から成っている。語り手の「私たち」も「私たちの物語の女主人」(英語の定型句 “Our heroine” を思わせる)という決まり文句に表れているように、特定の人物というよりも読者と作者の共同体のような概念的存在にすぎない (149)

 

 こおろぎ嬢が恋をする相手は、彼女が呼んでいる物語の主人公でうぃりあむ・しゃあぷ氏という。その物語の中で、しゃあぷ氏はふぃおな・まくろおど嬢と相思相愛の仲にある。しかし、周囲の人が羨む二人の恋仲はしゃあぷ氏の死後、自作自演であったことが明かされる。ここで大切になってくるのは、こおろぎ嬢の登場する物語においても、しゃあぷ氏の物語においても「分裂心理病院」の医者幸田当八氏の精神分裂症についての考察あ引用されることだ (155)。実際、こおろぎ嬢が想いを寄せるしゃあぷ氏 (William Sharp; 1855-1905) は、実在の人物として19世紀イギリスで活躍した詩人であり、まくろおど嬢 (Fiona Macleod) との自作自演の恋愛も史実に基づく。興味深いのは、この時代のイギリスではアイデンティティの不安定さについての言説が流布していた。例えば、スティーヴンスンの『ジキルとハイド』やオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』、そして精神分析の発展もこの時期のことだ。

 

 こおろぎ嬢がしゃあぷ氏について調べようと図書館に行くと、地下食堂で産婆学を勉擁している未亡人がいる。しかし、こおろぎ嬢が話しかけてもいっこうに返事がない。「ねんじゅう、こおろぎのことが気にかか」るこおろぎ嬢が「役に立たない事ばかし考えてしま」うのとは、対照的に、「産婆学の暗記者」は子供の出産を助けるという実際的な職業につこうとしている (168-69)。加えて、こおろぎ嬢はすでに死んでしまったしゃあぷ氏に恋をしているため、子供を為すことはない。ところで、この「産婆学の暗記者」に出会う直前にこおろぎ嬢は常用している粉薬を服用する。それは幻覚を引き起こす薬でもあって、もしかしたら、「産婆学の暗記者」は彼女の幻覚であったかもしれない。そもそもこおろぎ嬢の存在自体風のたよりにすぎないのであって、この物語は「役に立たない事ばかし考えてしま」う文学に携わるすべての人々が空想に浸ることで生みだされたという枠組すら想像させかねない。

 

(2019. 7. 2 読破)