いつも僕のブログをご購読頂き有難うございます。
今回は今年皆さんから反響があった記事の2回目。
これで初学者で短期合格するには学者本なんか不要なんだ!!って決意をはっきり固めている方もいます。
いい意味で主体的に体系を作り上げてそれを発信するとダイレクトに反応があります。
利害関係がないから疑問点について問題提起出来る。
今日は上記のつぶやきテーマとも関連するのですがマックス・ヴェーバーについて。。
行政学や社会学を学ぶとそのさわり位は出てきますよね。
今までの行政書士試験の勉強についての議論に対する考察。
私が6ヶ月間の短期間で学者本をメインに使ってそもそも合格するかどうかという問題。
つまり合格するか?しないか?というのが大問題であってこの質問に理想の法律家は?や六法の引き方、使用の有無?ツールはこれを使うべきなんていう価値規範的な問題、答えは入り込む余地はない。
そもそも六法なんて普段の実務で当たり前のように使ってるし、実務でも当然のような思考。理想の法律家の姿だって普通に社会人経験を営み同業ともお付き合いをしているので。
『行政書士試験における学者本(専門書)の必要性について。』これもどういう人間に本当に必要か明確にすべきだと思ったわけ。別に受験生が全員その価値規範的なものを学ぶ必要はないし、該当するわけではないから。
以前も毒舌ブログで書きましたが。。。
<行為の4類型>
① 目的合理的行為
目的合理的行為とは、「ある目的を達成するのに合理的な行為」である。すなわち、ある目的を達成するために、他者を含む外界の将来の状況を推測し、その予測に基づいて目的を達成するために適切な手段を選択する。いわば、他者や周囲の状況を、目的達成の条件・手段として利用するような行為である。目的合理的行為の特徴は、手段と目的との間の因果関係が論理的に明確なことである。
そして結果が短期的に出せるからやる気も出るわけで。「わかる⇒解ける(=分析)⇒楽しい⇒繰り返して定着⇒記憶⇒受かる」って至ってシンプル。
そしてその結果出題予想自体、下記のツールを使ってゲーム感覚で面白く出来るわけ。
つまり行政書士試験合格⇒ツールとして学者本は使えるのか?⇒使えるならどのように使うか?⇒『出題予想として必要な部分のみ』⇒いつから使うか?(自分の基礎レベルや環境を確認したうえで学習最初or試験直前)⇒他のツールとのリンクはどうする?等々
② 価値合理的行為
価値合理的行為は、「ある価値に合理的な行為」である。つまり、倫理的・美的・宗教的といった一定の価値を重視し、結果を顧慮することなく自らが重視する価値に従って行う行為である。
学者本を最初から丁寧に読み込む。著名な本を読み込むことに秩序と学問をやっている知的好奇心に満たされる。合格という結果を顧慮しないとは言わないがその結果と価値がどう結びつくのか。。つまり先行きの見えない勉強の何がいいの?そして手応え(アウトプット)は?と聞いても明確に答えられない場合が多い。学者本読んで要約したレポートでも書いて議論するのか?別に数字や回数を拠り所にするわけではないが、定着度を実感する上での刺激がないから面白みにかけるんですよ。ただただ流してるだけの地道な苦行のような感じで。。。
①と②のどちらがいいか?という事について結論を出すのはやめましょう。そもそも結論づけること自体無意味なので。僕はどちらかというと①の肯定派ですが別に②の方々の価値を批判するつもりは全くないです。試験短期合格のためにはひとまず受験中は②の方々の価値を理解したり議論したりすること自体そもそも時間の無駄なのです。
効率性を重視する方なら当然です。
例えばビジネスで自分の専門分野外の仕事を調べながらさばく際にいちいち書籍を最初のページから読む人はいませんよね。何冊か読んで関連性の高い項目を探しまず結果を出すこと。そして既知の部分をいちいち時間かけて読む人はいないと思うのです。
興味深いのは②の方々は「ある価値」を共有する人々との間の関係では、明瞭です。例えばそれは、ブランドとかクレド、閉鎖的な組織、村社会のような文化、自分の中にある経験や自信のなかで醸成されてるようなものかもしれません。たとえそれが異端であっても尊重されるべきなのです。そこから新しい価値観が産まれるかもしれないし。⇒目的合理的行為に通じる一手段として
しかし「ある価値」を共有しない人(空気を読まない人や①の人間を含む。)にとっては、手段と目的との間の因果関係は、論理的に不明瞭です。不明瞭だから説明を②の方々に対して求めるのです。しかし定量的なもの、形あるもの、そして目に見える結果、プロセスごとの成果を早急に求められた場合にはっきりと提示をしない。レスポンスが遅い。納期や数字化されたもので客観的な判断されることに抵抗を持つのです。(回数、得点なんて目的合理的行為の人間には単なる目安ですよ。)結果や結果にいたるプロセスに対するコミットメントを行政書士試験の勉強に当てはめたら多分、勘のいい方々なら価値合理的行為がどういうものかお気付きでしょう。笑曖昧なのです。
ではここで疑問?沢山講義を受けて沢山インプットもかけて、時間もコストもかけて何故また学者基本書を全面に出してインプットだの理解なんでしょうか?もっとシステム化された利用法ってあるのでは?あるいは憲法、商法、会社法の位置付けなど。。
重要なのは『価値そのものについて』が明確でない場合がある。そしてそれを醸成したブランドやクレドといった表面的なものだけにすりかわってしまう場合もあるわけで。。
そして②の方々は、その自分の信ずる価値を良いと評価してもらいたいだけでなく、解ってもらって一緒にその価値の良さを認める時間を共有したい。その価値について議論したい。そしてこれが自己のアイデンティティーの確立のプロセスで行き過ぎたり理解されなかったり、あるいは異質な方法で成功を収めた人に対して一方的に他者やその他者の使っているツールへの一方的な批判や否定やネガキャン、マウント、一言居士へとつながりやすい。そして講師の立場を利用して規範的(●●とはこうあるべき)な発言や態度が部分が押し付けがましくしつこくてどことなく疲れるんです。。押し付けるならまず相手のことや立場そして価値観や違いを併せて尊重することが必要だと思うのだが。自分にとって価値がない無意味なものでも他人の目指す方向性には価値のあるものだってあるのだから。一方的に馬鹿にしたり奪おうとするのはいかがなものか??いきなりダメだしから入るのではなく、『他人に対する少しの配慮と優しさを持ってあげて。』他人を根本的に変えるのは無理。ものぐさ腰掛けな自分が逆の立場ならどう思う?決して主観的になりすぎずに。。
言論の自由というもっともらしい大義名分の元に考え方の違う他人に対して喧嘩を売りたいだけなのかな?笑
前もブログに書いたが知識の細かさ以上に小さすぎるのです。。。。
つぶやきにも書いたように大人の事情を極力排除したうえでその魅力と価値を熱く熱く語れば言い訳で。。。。。自分が少し柔軟になればいい。一つの思考に固執せずにね。だいたい価値観の多様性とか過度に主張し過ぎる人間に限って自分のやり方に固執して多様性を認めたくないってケースが多い。
はっきりいって、カッコ悪いです。色々な環境で置かれた立場で頑張ってる方々や弱者を上から目線でダメだししていじめてるみたいで。。。
そして本試験終了後から問題提起されていた①過去問を解くだの分析する②一問一答、肢別の是非③問題を解くこと④なぜ問題を解けないか?迷うのか?についてのは②の価値合理的行為で考えればつまり結論や問題解決なんてどうでもいいことに対してただ議論することそのものに価値を見出す行為であり
くだらない事とはいいませんが、分別のある合格目前の受験生ならこの重要な時期にはあえてふみこまないで、無視(スルー)するのが一番でしょ。。。。笑そしてもちろん比較もしないほうがいいと思います。
実際に勉強してる方はきずかないケースが多いです。受け身だからその価値がどんなものかについてもね。
価値合理的なものの価値って上からの押し付けが多いから。。。主体的じゃないから自分の意思でやらされていることに意味づけができない。そしてその価値って後付けでなんとでもいえるものであればそれを最初に受けた方はなんで後から変わるの???って思うのです。そしてそれに目的合理的行為も相まって。。。あまりにも振れ幅が大きいとこの期に及んでこの方は言い訳をするのか??と思ってしまうわけで。。。。笑何もわざわざ言い訳をさらさなくていいよ。。。と気の毒に思える。。。
行為者の本当の思いと規範的理念、そして大人の事情がぶつかり合う部分もあるので難しい面もあるとは思うのですが。。。