おはようございます。

昨夜、先週半ばから台風10号による計画運休をしていたJR東海道新幹線がようやく全線の運行を再開しました。

 

この間、東京-名古屋間の移動は航空便の増発やJR北陸新幹線・中央本線、長距離バスなどで代替していたようですが、やはりリニア中央新幹線があればと思います。

 

まあ、今回についてはリニア中央新幹線の当初の開業計画が2027年のため元々間に合いようがないのですが、その実現が近い将来か遠い先かは大違いです。

 

今回は静岡県で新幹線だけでなく在来線の多くも運休したようですが、前静岡県知事のリニア開業妨害の暴挙が同様の被害を将来的にも全国にもたらしている点は、今更ながら静岡県民は大きく反省すべきと感じました。

 

 

モロッコ王国の歴史④(現代) 

 

 

(左の地図:Kimdimeと推定 - 投稿者自身による著作物と推定(いずれも著作権の主張に基づく), CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1422654による)

 

1956年にフランスからの独立を果たしたモロッコは、国王ムハンマド5世の専制体制の下でまずは内政の安定と領土問題の解決に着手し、後者のターゲットとして未だこの地域に植民地を残すスペインと衝突します。

 

具体的には1957年のイフニ戦争で南部タルファヤ地方(左上の地図の中央下ピンク部分)を、1969年には外交交渉で飛び地のイフニ(同中央赤色部分)の返還を受けました。

 

 

(右のムハンマド5世廟:Photo2023 - 投稿者自身による著作物, CC 表示 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=143629281による)

 

そんな独立後も続く抗争の最中、1961年に国王ムハンマド5世が51歳の若さで崩御し、息子のハッサン2世が跡を継ぐと彼は1962年の新憲法の下で立憲君主制に移行しつつも、自ら首相を兼任して積極的に親政を行います。

 

なお、ムハンマド5世は傀儡の国王の座に甘んじることなく独立運動を率いたことから、今も国民的英雄としてモロッコの人々に敬愛されているそうです。

 

一方、ハッサン2世は独裁的な手法から軍部や政党とたびたび対立し、戒厳令や秘密警察による反対派の弾圧を行うなど国民の不満を招きました。

 

ただ経済面では外資導入を軸に経済発展を進め、対外的には米国を筆頭に西側諸国との協力関係を重視しながらも、パレスチナ問題ではアラブを支持する巧みな外交戦略で、上述のイフニ返還など着実に成果を上げていきます。

 

そんな中で唯一如何ともしがたかったのが1962年に独立した隣国アルジェリアとの関係で、両国の未確定領土を巡る砂戦争(1963年)から一貫して対立関係にあり、今も国交断絶状態で全く改善の兆しはない状況です(汗)。

 

弱冠31歳の即位以来、そんな内憂外患に悩まされるハッサン2世は、1971年・1972年の2度の軍部による暗殺未遂事件後に国内的には関係者の処罰と並行して、一定の民主化等の政治的妥協を図ります。

 

加えて対外的には、国威発揚の意図から残るスペイン植民地の西サハラの奪還を掲げ、1975年にモロッコ人が非武装で越境する「緑の行進」により実効支配を開始。

 

さらに隣国モーリタニアと共謀してスペインに西サハラの領有権を放棄させた上で、両国によるスペイン領サハラの分割統治を認めさせます(マドリード協定)。

 

 

これに対し、現地の武装組織「ポリサリオ戦線」が西サハラの独立を訴えて1976年にサハラ・アラブ民主共和国(RASD)の建国を宣言します。

 

このポリサリオ戦線には、モロッコと対立するアルジェリアが後ろ盾となり、まずは西サハラ東部を支配するモーリタニアを西サハラから駆逐することに成功。

 

これに対し、モロッコは旧モーリタニア支配区域の一部を含む西サハラの約7割を実効支配するものの、外交的には他のアフリカ諸国がRASDを国家承認するなど敗北し、モロッコはアフリカ世界から孤立しました。

 

(Kmusser - 投稿者自身による著作物 based primarily on the Digital Chart of the World, with this UN map and commercial atlases (Rand McNally, Google, Encarta, and National Geographic) used as references., CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1621025による)

 

ただ、モロッコはこの苦境にアフリカ統一機構(OAU。アフリカ連合(AU)の前身)の脱退や実効支配の継続という強硬姿勢に出て、国内の王政支持の確立に成功します。

 

そして西サハラではポリサリオ戦線の実効支配地域との境界(上の地図中央の赤線)に「砂の壁」を築くなど、現地のテロ組織との徹底対決に臨みました。

 

しかしこの政策は、軍事費の増大やアフリカ諸国との貿易縮小によるモロッコ経済の低迷を招き、1980年代半ばまで国内ではストライキ・暴動が頻発したのです。

 

こうした国難に対し、国王ハッサン2世は周辺の北アフリカ諸国との融和を図った上で1991年に国連安保理の決議に基づき西サハラ停戦に合意。さらに1992年には憲法改正により民主化を進めて国内の政情も安定化させます。

 

(UN Climate Change - Flickr, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=105978865による)

 

その結果、1990年代のモロッコは国内外とも政治的に安定が保たれ、経済的には不安定さを残しつつ回復を見せた一方で、1999年にはハッサン2世が70歳で病没

息子のムハンマド6世が国王に即位しました。

 

即位後のムハンマド6世は、自由主義的な政治方針とアフリカ諸国との融和に前向きな姿勢を取り、欧米諸国とも友好関係を築くことで2000年代~2010年代にかけて政治の安定と経済成長を実現します。

 

「アラブの春」による政治的影響を示す地図。色の濃い国ほど影響が大きく、黒は政権の崩壊に至った国>

(User:Brightgalrs - Arab Spring map reframed.png, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16789884による)

 

こうした政治体制から、2010年代前半にアラブ世界で起きた「アラブの春」と呼ばれる民主化運動にも王政を前提とした政治改革によって体制維持に成功

 

17世紀後半からモロッコに君臨し、独立運動の旗印となったアラウィー朝の政治体制は、モロッコの人々にとっては民主主義以上に最善だったということでしょう。

 

その後、モロッコは2017年にはアフリカ連合に復帰し、アラブ世界の一員としての地位を取り戻す一方で、停滞する西サハラ問題は全く解決に至らず、この件で対立するイラン・アルジェリアとは再び国交断絶に至ります。

 

(By U.S. Embassy Jerusalem - DAZ_4350P, CC BY 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=97968602)

 

さらに、2020年に米国の仲介によりイスラエルと国交正常化し、その見返りに米国がモロッコの西サハラ領有を認めたことは、RASDだけでなくアラブ世界からの反発も強め、西アラブの停戦も破棄されました。

 

また、スペインにはセウタ・メリーリャ・カナリア諸島の領有権を主張しますがこちらは平行線を辿り、未だ南北に根深い領土問題を抱えています。

 

ただ、欧米諸国・イスラエルとの友好関係や長い歴史の下で王政が確立した点を踏まえると、第三者としては当面安定した国といえるのではないかと思う次第です。

 

 

  モロッコへの旅立ちに向けて

 

(出典:外務省海外安全ホームページ)

 

以上、モロッコの概要と歴史について一通り紹介したところで、予習編の最後にモロッコに関して個人的に考察してみたいと思います。

 

まず外務省の海外安全ホームページを見ると、モロッコは全域がレベル1(十分注意してください)で、一定の注意は必要ですが旅行には支障がない安全水準です。

 

これは、領土問題の渦中の西サハラや宿敵アルジェリアなどの近隣諸国と比べると際立って安定しており、実は北アフリカで唯一レベル2以上の地域がない国なのです。

 

そのため私としては過去に訪れたエジプト・チュニジアと同等の注意で臨もうと思いますし、

 

 

 

乗継地は2年ぶりのドバイとこちらも安全なので、現時点では正直あまり身構えてはいません。

 

とはいえ某つば九郎師匠の言葉を借りれば「油断大敵おでんたい焼き」、スリや詐欺(ボッタクリ)など軽犯罪や一部施設での写真撮影には十分注意するつもりです。

 

そしてもう一つ、今回の予習を経て感じたのがモロッコという国の微妙な立ち位置です。

 

具体的には、フランス・スペインに対しては植民地支配の被害者であり、一方で西サハラ問題では近隣諸国から侵略者と扱われるだけでなく、米国・イスラエルと友好的なためにアラブ世界では孤立した立場にあります。

 

(CC 表示-継承 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1186705)

 

中でも、モロッコ軍が西サハラ内の総延長2,000kmにも及ぶ「砂の壁(写真)」を築く際に、イスラエルの技術者と専門家の協力を得たのは不謹慎ながら非常に面白く、モロッコの微妙な立ち位置を象徴する出来事に思えました。

 

また、直近では今年8月下旬に東京で開催されたアフリカ開発会議(TICAD)閣僚会議において、RASD代表の出席とプレートの掲示を巡りモロッコ・アルジェリアの両国の代表の間で口論が起きたのも記憶に新しいです。

 

(出典:外務省ウェブサイト)

 

なお、日本は西サハラについてモロッコ・RASDの双方の主権を認めていないためRASD代表の出席は黙認という立場だそうで、この問題の根深さを改めて実感しました。

 

個人的には歴史上、独立王朝を持ったことのない西サハラが独立を主張すること自体意味不明ですが、モロッコ旅行中はこうした問題は口にしないようにするつもりです。

 

以上、そんな北アフリカの歴史ある王国を7泊10日でじっくり巡りつつ、その合間に恒例の現地ダイジェストも連載するつもりなので、そちらもぜひご覧ください。

ではでは。