こんばんは。
先日、帽子ブランド「CA4LA」と某セクシー女優が自らディレクターを務めるブランド「MISTREASS」のコラボを巡って、多数のフェミさん(笑)が誹謗中傷を行いました。
「子供にセクシー女優を見せたくない」「女性を守る」などの建前を述べつつも、結局は「自分がセクシー女優を嫌いだから」という主観と我儘の押し付けでしかなく、いつものことながら実に醜い批判です。
これが職業差別であることは論を待ちませんが、少なくとも需要のないビジネスなら失敗しますし、それはブランド自身が判断すべきことといえます。
こうしたモンスタークレーマーを生み出す日本の風土の改善のため、当事者も我々外野も誹謗中傷へのスルーと必要に応じての法的措置を徹底したいですね。
1月4日(木曜日)ベルリン⑦
さて、すでに帰国から半年が経過した年末年始のドイツ周遊旅行記は、7日目夜に訪れたDDR博物館の入場見学から再開します。
東ドイツの政治・行政関連では明らかに真っ赤な思想強め(苦笑)の展示が充実していましたが、その共産主義の下での弾圧の面影が顕著に見られたのが、
大変狭く粗末な監獄の一室です。
官憲からの厳しい扱いを含め、この場所に1日閉じ込められるだけでも気が狂いそうに思えますね…。
そして最後は、今時キューバあたりでしか公道を走っていなさそうなレトロな車とバイクを挟んで、
東ドイツ市民の家族での暮らしを再現したエリアに入場。
淡いカラーリングの少し時代がかった内装や、日本の昭和時代を彷彿とさせる家具は若干の人工的な香りと懐かしさを感じずにはいられず、
ある意味で古き良き裕福な家族の暮らしを体現しているように感じた次第です。
他にも集合住宅のエレベータ(写真1枚目)や車庫(同4枚目)なども見かけましたが、そんな普通の暮らしの中にこっそりと紛れ込んでいたのが、
東ドイツ国家保安省(シュタージ)のスパイだった家族の一員が密かに通信を行うための小部屋です(汗)。
机上の電話や通信機器、そして何より奥の壁に掛かった東ドイツ最後の最高指導者エーリッヒ・ホーネッカーの若き日の写真は、家族や友人さえ信頼できないスパイ国家・東ドイツを体現するような一室でした。
以上、そんな思想強めで共産主義の香りに満ちた展示を一通り回ったところで、土産物店(写真1枚目)を軽く冷やかしてからこの博物館を退出。
そしてこの日の締めは、DDR博物館からホテルに徒歩で戻る道すがら、マリエン教会やテレビ塔を見上げたり(写真1・2枚目)、年が明けても続く公園のクリスマスマーケット(同3枚目)の雰囲気を満喫しました。
巨大な観覧車(写真1枚目)もヨーロッパらしいなあと、愚にも付かない感想を浮かべた後、
市役所通りからライトアップされた「赤の市役所」を眺めてからホテルに戻り、7日目を終えたのでした。
1月5日(金曜日)ベルリン⑧・ポツダム①
続く8日目は、この日もホテルで朝食を済ませてから、まだ外が明るくなる前に出発し、
最寄りのアレクサンダープラッツ駅(写真1枚目)から乗客まばらなSバーン(近郊鉄道)に乗り、ポツダムの中央駅(同2・3枚目)に移動します。
ベルリン中心部から20分程度と日帰り旅行にはぴったりのこの街ですが、車窓からすでにわかっていたとおり、
外は深々と雪が降る銀世界で、寒風も吹きすさぶ中々厳しい気候でした…(汗)。
そんな中で中央駅を出てハーフェル川に架かるランゲ橋を渡ると(写真1枚目)、その先にはアルター・マルクト広場が見えてきます(同2枚目)。
この広場の周辺には、18世紀のロココ様式のファサードを持つ市王宮をはじめ、瀟洒な佇まいの近代建築が並び、
かつての宮廷都市の面影が如実に感じられました。
ただ、市王宮はベルリン王宮と同じく旧東独政府に一度爆破されて再建されたものですし、
フリードリヒ・エーベルト大通り沿いには旧東独時代に建てられた高層ホテル(写真1枚目)が調和の欠片もなく建っており、これらは共産主義政権下の傷跡ですね…。
そしてこの大通りを真っすぐ北上して旧市街に入ると、その先にはネオ・ゴシック様式のナウマン門がどっしりした佇まいで今も残っています。
これは、かつてポツダムの市街地が城壁に囲まれていた時代の歴史的遺産であり、その東側には、
赤レンガと破風屋根によるオランダ風の家が100軒以上並ぶオランダ地区が広がっており、
こちらはオランダ文化に傾倒していた「兵隊王」フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が、オランダ人労働者を受け入れるために18世紀前半に整備した区画です。
なお、実際にはオランダ人労働者は上手く集まらず、オランダ以外を含め各国から幅広い職業の人々を受け入れたそうで、今はこのポツダム旧市街の中でも個性的な雰囲気を活かし、カフェや雑貨店などで賑わっています。
この後は、フリードリヒ・エーベルト大通りを少し戻り、旧市街を東西に貫くブランデンブルク通り(写真1~3枚目)に入りました。
ここで、宮廷都市ポツダムについて少し触れると、ポツダムは15世紀以来神聖ローマ帝国のブランデンブルク選帝侯を世襲したホーエンツォレルン家の下、17世紀に首都ベルリンに次ぐ第二の拠点を整備したことに起源を持ちます。
その後、18世紀にフリードリヒ・ヴィルヘルム1世が軍事拠点として整備し、さらに息子のフリードリヒ2世(大王)の手で壮麗な宮殿が並ぶ宮廷都市が完成。
これらプロイセンの歴史的遺産が数多く残る街は、首都ベルリンと兄妹のような関係の下、首都の喧騒とはまた違う穏やかさと壮麗な宮殿群が今も大きな魅力です。
本題に戻り、ブランデンブルク通りの西の端には、
古代ローマの凱旋門を模したブランデンブルク門が建っています。こちらは観光名所としてはマイナーかつ単独で唐突に建っていますが、
実はベルリンの同名の有名な門より20年以上前に建てられたもので、旧市街と宮殿エリアの境界を示す重要な歴史的遺構だそうです。
この後は、旧市街の西のサンスーシ公園に入場。
正門でなくても立派な門(写真3枚目)を持つこの公園は、上述のフリードリヒ大王が築いた壮麗な宮殿群と広大な庭園で知られ、世界文化遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の中核を成す存在です。
そして門から公園に入ると早速、遠近感がおかしくなりそうな並木道(写真2・3枚目)が続き、
その並木道が開けた先には、ぶどうの段々畑とその上に建つサンスーシ宮殿が眼前に広がりました。
冬季は手前の大噴水が停止され、彫像群は箱で覆われているため完全な形ではありませんが、このぶどう畑を含むシンメトリックと立体感、さらに段々畑を上る中で、
クリーム色の外観と優美な装飾が映える宮殿が近づいてくる様はとてもドラマチックといえます。
サンスーシ(SANS SOUCI(写真3枚目中央上の壁に刻まれています。))宮殿は、フランス語で「無憂宮」を意味し、上述のフリードリヒ大王が憂いのない人生を謳歌するために1747年に造ったロココ様式の離宮です。
そして、フリードリヒ大王はここで春から秋にかけての大半を、好きな音楽や書物、果物に囲まれて過ごしたそうで、その意味ではまさに季節外れの訪問でした(苦笑)。
また、宮殿自体は横長の平屋建てで東西の全長は100m・部屋数は12と、王の宮殿としては小さな部類ですが、その周囲には附属する施設が複数見られ、